②横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス

◆山口高商第三代校長・横地石太郎氏

1860年1月生まれ。金沢出身。

前稿で述べた鳳陽先生の子孫・第五代上田家当主上田茂雄氏より5歳ほど年下にあたる。

明治7年に金沢英学校に入り、英語、数学、漢学を修学。旧藩主前田利嗣の学友として東京前田邸内学問所に入ったが、同校の廃止に伴い東京英語学校から東京帝国理科大(東大理学部)に進み、応用理学科を卒業。

理学博士だ。

専門は物理化学だが、考古学、天文学、地学など幅広い分野に興味を示した知識人であった。

◆神戸、京都、鹿児島で中学教諭を務め、福島県尋常中学校校長を経て、明治27年(1894年)11月に、当時愛媛の住田校長に招かれ松山中学校(現松山東高)教授嘱託として入った。

翌明治28年(1895年)3月に教諭、4月に教頭となる。

10月には校長事務取扱、翌96年3月、校長に就いている。

横地氏は松山に赴任した後、松山中学の校長を退職して1900年3月に山口高商の教授として赴任するまで、5年半松山に居た。

横地校長が松山中学の校長時代、松山に居を構える上田茂雄氏と出会い、交流があったのであれば、面白くなるが、上田茂雄氏は軍人だ。横地校長より5歳ほど年上の上田茂雄氏は年上日清・日露戦争に従軍しているので、こうした可能性は薄い。

上田茂雄氏が退役後に松山に移り住んだのは、横地校長が山口高商の教授として対岸の山口に転任していった後だと思われる。

横地氏は学究肌の人物だ。松山の考古探訪に勤しみ、古墳、埴輪、土器などの考古学的論考を学術雑誌に投稿している。横地石太郎氏が山口高商に転勤してくる直前の話だ。

◆横地校長の漱石との出会い

松山で横地校長が出会ったのは別の有名人、夏目漱石であった。

横地が松山中学の教頭になったのは明治28年4月、東京から漱石が新任の英語教諭として赴任してくる。

当時横地氏が35歳、赴任してきた漱石は28歳であった。

つづく

(学23期kz)

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