山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 5月トピックス】
◆「坊ちゃん」の主人公のモデル
坊ちゃんのモデルは誰か。
残念ながら漱石自身ではない。
弘中又一氏、山口の出身だ。
山口県都濃郡湯野村(徳山)の生まれ。同志社に学び、数学の教諭として漱石と同じ年度に数学の教師として漱石よりも6歳若く、漱石と同じタイミングで松山中学に赴任した。
◆赤シャツのモデル
では「坊ちゃん」の影の主人公ともいえる教頭の「赤シャツ」は誰がモデルとなったのか。
一説では、漱石が松山に赴任してきた時に、当時「教頭」だった横地石太郎氏(山口高商第三代校長)が教頭の「赤シャツ」のモデルではないかとの説もあった。
しかし、そうではない。
◆書き込み本
「草枕」、「坊ちゃん」、「二百十日」などを収め、明治40年に刊行された漱石の単行本に「鶉籠(うずらかご)」がある。
ここに収録された「坊ちゃん」の中に、後に第3代山口高商の校長を務めた横地氏と「坊ちゃん」のモチーフとなった
弘中氏が共同で「坊ちゃん」の欄外に書き込みを入れた「書き込み本」がある。
書き込みは本の余白欄に書き込まれており、記述の中身は「坊ちゃん」に出てくる場所、施設から当時の出来事、また登場人物に関して、事実確認と解説が加えられている。
例えば、坊ちゃんが松山に着いた「港」が出てくるが、「伊予三津浜港(横)」という注釈が付いており、坊ちゃんが赴任した初日の校長訓示の内容については「事実(横)」とある。
漱石の前任者の箇所については「前任者はスコットトイフ外国人デアッタ。其様ナコトナシ(横)
(横)とは横地氏の意である。
「蕎麦ヲ喰ッテイルトコロヲ見ラレタノハ 弘中ナリ」(横地)
書き込みには「事実ナリ」、「事実ニアラズ」、「事実ラシイ」)という記述が頻繁に出てきており、記述者も(横)、あるいは(横地記)、(弘中記)というように横地・弘中の両名協同で検証されており、「坊ちゃん」が事実をベースに書かれていることがわかる。
◆赤シャツの正体
この中で「赤シャツ」について、横地氏自身が「坊ちゃん」の欄外に、「赤シャツ」のモデルは横地自身ではないと注釈を加えている。
「赤シャツヲ着テイタ西川ハ 給ハ下デアッタガ、横地ハ嘱託教授デアッタカラ、教頭ハ西川デアッタ」(横地記)
さらに弘中氏が解説を加えている。
「赤シャツハ当時ノ流行ニテ 西川モ中村も着用セリ。沢田モ着用。横地ガ着用シテイタカ否カ山嵐ニ問イ合ワセルモ 確タル証拠ナシ。マズ無罪放免ナラン」(弘中記)
続けて
「元来赤シャツ其ノ者ノ性格ハ 前記沢田幸次郎氏ノ描写ナルモ 予等ノ就任セル時ハ 恰カモ沢田氏排斥セラレテ去リ、其ノ後ニ横地氏来ラレ、漱石ハ沢田ノ性格行動ヲ伝説トシテ聞ケルニスギズ、風来顔貌等ハ西川ヲモデルニセシトコロ多シ」(弘中記)
この書き込み本は、2016年には横地氏のふるさと金沢では、「金沢ふるさと偉人館」の横地石太郎企画展が企画され、そこに展示されたこともある。
【写真参照】
なお、この書入れ本は国立国会図書館のデジタル化された図書の閲覧サービスでも見ることができる。
◆横地氏と弘中氏、晩年は京都に
一説には「赤シャツ」のモデルとも言われた横地石太郎氏と「坊ちゃん」のモデルとなった弘中又一氏、両者とも晩年は京都で暮らした。
横地石太郎氏はふるさと金沢にも近い京都で余生を送った。
また、山口・周南市(徳山)出身で同志社普通学校(現同志社大)で学んだ弘中又一氏も教職としての最後の赴任地京都・同志社中学で教鞭を取り、横地氏と同様京都に住んで、数学を研究したという。
横地氏は84歳で他界、当時としては長生きの方であろう。
この二人が晩年、京都で松山当時のこと、漱石のことを語り合ったのかもしれない。
つづく
(学23期kz)