④横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆松山中学横地校長が山口高商教授へ、そして校長に就任

横地校長は1900年3月に松山中学を退職し、9月に山口高商教授として山口に赴任する。

横地氏にとって山口高商は単なる腰掛けの職ではなかった。

校長になったのは明治44年(1911年)3月。校長を辞職したのが大正13年(1924年)6月。

何と13年の永きにわたり校長を務めた。

さらに言えば、その前に10年ほど山口高商教授時代んに、山口高商初代松本源太郎校長が退く際に校長事務取扱職を努めており、この期間を含めると、都合23年という長い間、山口高商に奉職された。

◆高商校長在任中

校長着任後は実務教育に注力するとともに、伝統たる倹約の美風を奨励し、質実剛健の気風を維持することに努めたほか、教育者の師弟関係の親密化を図り常に家庭と学校との連絡にも配意している。

明治38年、山口高商への学制転換時には生徒の定員が300名であったが、明治45年には360名となり、試験場は山口、東京、京都の3か所に設けられた大正7年には480名となり、山口高商への入学志願者も増え、競争倍率は15倍に達したという。

この頃、中国との関係が重要性を増し中国事情に精通した実業家の育成が重視された。

明治44年には中国語科を新設、大正4年には支那貿易講習科を設置(大正7年には支那貿易科と改称)

大正6年(1917年) 研究団体として東亜経済研究会(現・東亜経済学会)が発足している。

また、かねてから商科大学への昇格が念願となっていたが、大正9年には東京高商の大学昇格が実現したことで山口でも昇格運動が盛り上がる。400余名の生徒が「昇格か廃校か」という旗を立て、鳳陽先生の墓に参った後、町を練り歩き、町民に訴えたという。横地校長も「商科大学に昇格し、法科併置の防長大学設置」という「防長大学設立趣意書」をまとめて県知事とともに上京し、その実現に向け尽力された。

名物の満韓修学旅行は明治40年に開始されて以来毎年継続してきたが、45年に初めて中国本土に向かっている。

大正2年には修学旅行先を中国本土と朝鮮の二手に分けて実施した。

特に朝鮮旅行隊に対しては、現地で陸軍大将寺内正毅朝鮮総督(山大のある平井村出身)が訓話し、児玉源太郎総務局長(徳山出身)が朝鮮を巡る情勢について講話したという。

ただ、修学旅行先の選定で、清国からの留学生の要望が入れられなかった問題が拗れ、大量の退学処分者を出さざるを得なかったような事態も起こり、校長としてご苦労もあったようだ。

横地石太郎校長は大正13年1924年6月に山口高商を退官。山口高商名誉教授の称号を得る。

横地校長はかつて京都中学校で教諭を務めていた縁もあってか、晩年は京都に居を移し、大戦終結の前年・昭和19年(1944年)5月末、84歳で永眠された。

(学23期kz)

重大な公式の儀式の際に着用した大礼服
「金沢ふるさと偉人館」提供

◆参考  横地先生山口高商在任中の主な出来事 

【明治33年(1900年)★愛媛県尋常中学校(松山中学)校長から山口高商教授に就任】

明治38年(1905年)山口高等学校を山口高等商業学校へ転換

同年  旧制商科大学への昇格運動おこる。

明治39年(1906年)山口高等学校廃校。高商に完全移行。

明治39年(1907年)開校式

同年        満韓、清韓方面の修学旅行(3年時)が始まる。

明治41年(1908年)中国人留学生を対象に特設予科を設置。

同年        商品陳列室の竣工

【明治44年(1911年) ★山口高商の校長に就任】

明治44年(1911年) 中国語科を新設

同年       修学旅行を巡り、清国留学生の99名中約8割の留学生に集団退学処分。特設予科廃止

大正4年(1915年) 支那貿易講習科を設置(修業年限1年)

大正6年(1917年) 研究団体として東亜経済研究会が発足(現・東亜経済学会)

大正7年(1918年) 支那貿易講習科を支那貿易科と改称。

         旧制商科大学への昇格運動。

大正9年(1920年) 「商科大学への昇格、法学部併設による総合大学」へ向けた「防長大学設立趣意書」をまとめて横地校長上京。

大正10年(1921年) 商業研究所を設置

大正11年(1922年) 同研究所を調査部と改称。  

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