(岡山支部からの投稿)
山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 3月トピックス】
宇部・山陽小野田支部のMyzさんが投稿した山口大学準硬式野球部の話に触発されて、山口大学硬式野球部にいたある人物の出会いについて書いてみたくなった。
また、当時の準硬式野球部が遠征に行った久世球場(岡山県)への自分自身の再訪に繋がった。
◇入学試験前夜
私は1980年、山口大学経済学部を受験した。湯田温泉にあった小さな宿、加藤旅館(今はない)に泊った。受験前夜、風呂に入った。固形石鹸を丸刈りの頭にこすりつけ、洗髪しているがっつりした体格の君がいた。君との初めての出会いである。
洗髪に固形石鹸?こんな世界を知らなかった、10代の僕は驚いた。そして何学部を受験するのかと聞いた記憶があるが、他のことはあまり覚えていない。
入学して教養部の授業を受けに行ったとき、ばったり、固形石鹸洗髪の君に会った。
開口一番は「あっりゃ!」という驚きの一声であっただろう。
その後、学生時代の4年間、そして互いの転勤などによる中断はあったが、40年を超える交友が続いている。
◇野球部キャプテン
君は大阪の公立高校で、帽子の左右に3本線が入っていることで有名な野球の名門校のキャプテンをしていたという。そして専攻は理学部の数学科。将来は高校の先生を目指しているといった。
都会育ちであったはずの君が選んだ下宿先は、野球場南にあった平川の農家の納屋、その離れの小部屋であった。これだけでもかなり変わった人物であった。
教養部時代は自転車をこいで、よく君の下宿を訪問した。大阪出身の君は、同郷の司馬遼太郎の小説を早い時期からよく読んでいた。また、「父子鷹」とかも読んでいた。江戸時代の人情味あふれる市井の人にも興味を持っていたものとみられる。
今、振り返ってみると、生まれもっての教育者にふさわしい人間陶冶を早い時期から自ら重ねていたようにみえる。
経済学部には野球の名門の広島商業から入学した同期の学生もいた。彼は文武両道で、広島商業野球部で活躍していたという。
山大硬式野球部のキャプテンになったのは理学部数学科の君であった。
◇数学の高校教師
君は大阪の教員採用試験にも一発合格をし、念願の数学の高校教師となった。そして当然のように硬式野球部を指導することとなった。
教員としてのその後は高校野球界の名門校の出身、そして公立高校の教師という立場で大阪高野連ではかなりの重責を担うことになったようである。休日も練習試合があり、同行して指導する。そしてその時間を嬉々として楽しみ、高校生と一緒にクラブ活動をしている話をよく聞かせてくれた。
進学校で、大阪野球界の公立高校の星、春日丘高校の監督をしたこともあるという。その指導力の評価がうかがえる。「ああ、春日丘ね!」という人は相当な高校野球好きに違いない。
まさに君は大学入学当時から、そして在学、定年まで人の教育に携わってきた。そして進学校の教師として近畿圏の難関大学の数学の入試問題を毎年解き続け、進学指導、数学指導にも熱い情熱をささげてきた。
そんな凄い教育者の卵と出会えたのも山口・平川であった。そして君は親鳥となった。
定年を前にもうひとりの大阪出身の経済学部の同期と3人で飲んだお酒は格別のものであった。
(岡山支部 B)
Bさん 懐かしく久世球場の写真を見させていただきました。そうですか、硬式野球部の「君」のことのへの思い出を綴られて、人にはそれぞれに不思議な出会いがあるのだと思いました。久世球場は設備も整い随分と整備されたのですね。私の時は、まだ広場のような状態のグランドでした。でも、隣には神社、そしてグランドの周りには藤棚があり、春のリーグ戦の時にはその満開の下で、試合合間の昼弁を楽しんだ記憶が蘇りました。私は宇部にUターンして、蒜山高原へ車でドライブがてら旅をしたことがあり、その折、懐かしい真庭市の久世により、当時宿泊した旅館や試合をしたグランド跡地を見てきました。その折には、掲載写真の久世球場はありました。随分様変わりした記憶があります。
ところで、Bさんは岡山支部とのこと、私の同じ職場の後輩で24期のO君(鳳陽誌によれば支部大会のゴルフなどには参加)をご存じですかね。また、準硬式野球部で広島商業出身で38期(?)私の職場に入行してきた後輩がおり、当時は「山和会」(元同じ職場の大学OB会)として何度か顔を合わせたことがあると思います。また、津山には私の同期でM君(元さくら銀行)がUターンして私たちの同期会(獅子の会)55周年(山口で開催)に参加してくれるとのことです。Bさん、いろんな人たちとの繋がりがその人たちを元気づける。いいですね!ご活躍をお祈りたします。(Myz)