中原中也「聖なる無頼」
山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 3月トピックス】
中原中也。詩人。
私は山口大学経済学部の学生時代から、彼に強い関心がありました。
彼の少年時代の写真もいい。見るからに賢そうな顔。
「神童」と呼ばれていたそうです。
湯田温泉界隈を歩いているとき、ある屋敷の表札に「中原」と記してありました。
―ここが中也の実家か
◇私の好きな詩
kzさんが「好きな詩もお伝えください」と書いていたので、私の好きな詩の一部を伝えます。
帰郷
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いてゐる
心置きなく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ
私が山口で暮らしていたころ。
天気のいい日。窓を大きく開け放ち、この詩を
よく口ずさみました。
◇中原中也記念館
10数年前。山口を再訪しました。
湯田温泉の一角に建つ中原中也記念館を訪れました。
心地よい空間です。
窓辺の椅子に座り、中原思郎さん(中也の弟)の文章を読みました。
これがとても素敵な文章なのです。中也の臨終の情況も描かれていました。
◇詩人の臨終
中也は1937年10月、鎌倉の病院に入院しました。思郎さんは母親と共に鎌倉へ駆けつけます。
中也は死の間際、母親の指を自分の2本の指ではさむ。煙草を吸うかのように。
そしていった。
「おかあさん」
もう一度
「おかあさん」と呼ぶ。
「僕は 本当は 孝行者だったんですよ」
「今に分かるときが来ますよ」
10月22日午前零時10分、死去。30歳。
思郎さんはこう記しています。
―中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであった。
(鳳陽会東京支部 S)
随筆家小林秀雄は、最近まで存命でした。中原中也と小林秀雄の関係は、長谷川泰子を巡る三角関係を中心にした愛憎劇に当方は関心を持っていました。泰子は中也を捨て、小林を取った。形の上では、小林が中也から泰子を奪ったことになる。そうした事件の後からも、中原と小林の交友関係は続き、死の直前、故郷山口に戻る決心をした中原は、二冊目の詩集となる『在りし日の歌』の原稿を小林に託すほどだった。湯田温泉中也記念館の碑面には、「帰郷」の一節「これが私の古里だ/さやかに風も吹いている/ああ、おまえは何をして来たのだと/吹き来る風が私にいふ」という詩句が掘られている。(大学29期 KY)