山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 6月トピックス】
◆鳳陽先生の子孫で上田家第5代当主の上田茂雄氏は軍人だ。40歳の時に朝鮮出兵や日清戦争があり、50歳の時には日露戦争があった。こうした戦争の勃発により、居所を変えることを余儀なくされる。一時は大阪にも居住したようだ。
軍人の経歴として最後は精鋭部隊で日本軍屈指の戦果を挙げた愛媛・松山の陸軍歩兵22連隊に配属、そこで停限年齢を迎え、退役した。退役の地・松山に居を構え、松山で牛乳会社の社長に就く。
軍人としての上田茂雄氏の階級は獣医監。日本陸軍の獣医官を統括する地位で、階級としては少将クラスだ。少将クラスの停限年齢は58歳。
◆茂雄氏は軍人時代、松山で地元の名士と交流があったのだろうか。
茂雄氏の松山へいつ赴任したのかは定かではない、。
高位の軍人として松山の名士の方々と交流があったとすれば、漱石とはともかく、松山中学の校長・横地氏とは出会っていたことも考えられる。
また茂雄氏が退役後、牛乳会社の社長を務めた時から地元との交流を始めた場合、横地校長はすでに12年も前に高商教授として山口に行き、高商の校長になっていたので、松山で出会っている可能性は薄い。
◆しかし、上田茂雄氏は自分が上田鳳陽翁の子孫であることを認識していた。上田家に数々の口伝が残り、語り継がれていることことがその証となっている。
このため茂雄氏は松山に居を構えていても、時々は鳳陽翁の墓のある山口へ、先祖・鳳陽翁の墓参りに行っていたのではないか。
山口は愛媛・松山の対岸で、海路で60キロ弱、2時間半の距離だ。
上田家では、先祖の墓のある山口との縁も徐々に薄れていくかと思われたころ、茂雄氏は周囲から松山中学の前の校長・横地石太郎氏が山口の高等商業学校の教授として転任したという話を聞き、横地氏との縁を認識し、茂雄氏は山口への墓参りの折に、横地校長を訪ねたのではないか。
◆両者の出会い
横地校長は前の赴任地松山から訪ねてきた官立山口高商の学祖・鳳陽の子孫を目の当たりにし、また上田茂雄氏も横地校長に松山での縁、また先祖・鳳陽翁との縁を意識したのではないか。
その時から二人は密接につながっていったのだろう。
これを機に、上田茂雄氏は山口高商で催される鳳陽翁墓前祭など各種催しに招かれていることは、上田家に口伝として残っている。
そうした機会の一つに鳳陽翁の墓石の前で写ったのが山高帽の横地校長と軍服姿の上田茂雄氏の写真だったのだろう。【文末の写真参照】
◆この写真を三田の鳳陽会東京支部で見せて頂いたのが上田茂雄氏の玄孫にあたる上田慶太氏だ。
慶太氏も上田家のこと、また先祖の上田鳳陽翁のことを調べている際に、東京支部のホームページに掲載された上田鳳陽先生の記事に行き当たり、連絡を頂いた。ここで我々と鳳陽先生との埋もれていた縁が繋がった。
その上田慶太氏は、本日6月1日(土曜)の東京支部総会のゲストとして参加される。
(学23期kz)