「日本人論」の欠片 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 9月トピックス】

◆個を大切にする米国

人はみんな同じなのか。

人はみんな違うのか。

米国では「人はそれぞれ違う」ということが当たり前の前提となる。

もともと国の成り立ちからしてそうだ。建国200年あまり。多くの国から事情を抱えた人々が移り住み、人種のサラダボウルといわれる米国。

日本と同列の一つの「国」として比較することも問題なしとしないが・・・。

米国だけでなく、話を欧州に広げても、同じ結論が導かれることが多い。

相手の個性を大切にし、相手を認めないと、自分も相手から認められないのだ。

個性を大事にするということは、そういうことだろう。

もともと個性を認め合うことは遺伝学的にも正しいと言える。

米国人にとっての競争の意味

「競争」の国と言われる米国。

しかし徹底的に争い、協調しないということではない。

異質な者同士がぶつかり合い、議論し、切磋琢磨する。

大きな輪で考えると・・・競争することで、相手が置かれた立場、哲学、考え方、主張が分かり、相手の存在を理解し、相手の優れた考えを認識することができる。

驚くのは、そうした議論を通して、相手の優れた着想や主張を、平気で自分の中に取り入れる勇気がある者が多いのが米国人の特徴のように思える。

ケロリと。

恥ずかしげもなく。

ここが日本人・・・拘りがあり、譲らない日本人と大きく異なる。

なぜ、こうした行動がとれるのか。

面子はないのか・・・

面子よりももっと大事なことがあるからではないかという仮説に行き当たる。

競争がもたらす恩恵

競争によってもたらされる将来のより大きな幸福。

これを社会的な「公共物」、個人を超えた重要な「公共物」と認め合っているのではないか。

社会全体で次元の異なる幸福を享受したい場合、個人がその場の面子や拘りを優先する度合いは日本人に比べて低いようだ。

こうした幸福を手に入れるという「価値」に従順で、こだわりを捨て、従順になる勇気を持っているのだ。

子の教育に見る日本と米国の違い

日本では減点方式。

人(子供)はみな同じという前提。

どの子も100点満点で生まれてきて、家庭や学校の教育の過程で減点されながらも「人並みに」100点を目指して教育する。

ということは、100点満点を取ってようやく他人と同じになるというわけだ。

これでは、これから先に世のなか、リードしていくことはできない。

米国では加点方式。

人(子供)はみな違うという前だ。

どの子も生まれた時は零点。

そこから「100点」、もしくはそれぞれの目標点を目指して教育にかかる。

こうしてみると、ここでも競争の仕方が日米で異なるのだ。

なお、発射台の低い加点方式の方が、元気が出る。

減点方式では、どうしても動きが固くなる。

(学23期kz)

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