「日本人論」の欠片 その12 八百万のカミ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 12月トピックス】

◆Buddhist

国際線に乗ると入国する国によっては、入国カードに「宗教」について書かされる欄がある。

その欄には「Buddhist」と書くべし。その昔、先輩からはそう教わった。この記載がなければ「無宗教」ということになり、大変なことになる。

M.ウェーバーによると「宗教とは行動様式であり、人の行動を意識的、無意識的に突き動かしているものの総称」としている。

社会学者らしい。

ここには社会的な伝統や慣習や、道徳も含まれていることになる。

こうした定義からすると、「無宗教者」はどのような規範に基づいて行動する人間か見当がつかず、神を信じない無神論者はとある国の国家が定める宗教を破壊しかねない危険人物とみなされ、恐ろしいことになりかねない。

◆八百万のカミ

一神教の国に比べると、我が国では発言や行動はかなり自由だ。

一神教を縛る哲学や規則にとらわれなくてもよいからだ。

地動説を唱えようが、ガリレオのように異端裁判にかけられ、有罪にされるようなことはない。

学校の先生が進化論を教えようが、米国南部の先生のように、問題にされるようなことはない。

また無神論でも、当局に引っ張っていかれたり、寺や神社から問い詰められることもない。

一神教の世界では死刑にあったり、火あぶりの刑に処せられることもあった。

また、日本では、宗教的上の権威の併存状態があった。

すなわち、

儒学者が仏教を批判することもアリ。

国学者が仏教と儒学を批判することもアリ。

仏教がどのように反論しようと自由。

幕府は騒擾に発展しない限りタッチしなかったし、できなかったとされる。

自由な世界じゃないか。

◆可畏(かしこ)きもの

本居宣長はカミを「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏(かしこ)きもの」としている。

可畏きもの・・・

可畏(かしこ)きものとは、辞書には「深い敬意や恐怖を感じ、心から尊敬するという意味を持つ言葉」とある。

権威あるもの、感動を与えるもの、神々しいもの、それらは全て「神」となる資格を有しているということか。

自由な日本で、大らかな世界が生まれたのかといえば、そうはいかなかった。

イデオロギーが存するところには、「カミ」が担ぎ出され易い。

歴史を振り返っても、暴力的な運動や活動でさえ、それらを権威づけるために権威を有する者が「カミ」として「信者」によって担ぎ出されてきた。

この「カミ」には経典がない。

ここに「信者」による利己的で勝手な解釈が入り込む下地がある。

◆では、経典がある一神教の経典、聖書やコーランでは解釈が入り込む余地は無いか。

そんなことはない。

正統派と異端、正論・正義と俗論。洋の東西を問わず、これらの両論の争いが繰り広げられてきたのが人類の歴史だ。

(学23期kz)

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