なぜにオランダと ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】  

◆オランダの国柄

スペインの一時領有から独立を果たしたオランダ。

もともとオランダは中世以来、穀物自給に乏しいオランダは地理的にも海路交通の要衝にもあったことで貿易を重視。そのため造船業にも力を注ぎ、17世紀には欧州の6割がオランダ船だったという。高杉晋作が上海から長崎に帰港した時、どうしても欲しくなった二万両の蒸気船、これもオランダの蒸気船だった。

また、オランダは国柄として自由な気風を持ち、新教・プロテスタントの国。他国で思想信条により迫害を受けた人々を受け入れることで繁栄してきた歴史があり、自由を尊重し、宗教にも寛容だった。

こうしたこともあり、欧州諸国から情報が集まり、新聞・印刷が盛んになり、科学者や思想家、また画家を始めとする芸術家も移り住み、芸術文化面でも花を開かせた。

15世紀末にオランダは一時スペインを本家とするハプスブルグ家の領土となったが、当時のスペイン王がカソリックを強制したうえ重税も課したため、独立に向かう。

17世紀初頭には東インド会社を設立し香辛料貿易を独占した。

◆イエズス会

当時、イエズス会に代表されるポルトガルやスペインなどカソリック国の対外進出の特徴は貿易と布教がセットになっていた。すなわち貿易で儲けてもらい、その代わりにキリスト教の普及を進めたのだ。

しかし、キリシタン大名がイエズス会本部へ土地の寄進をしたり、スペインによる日本征服の意図(スペイン船・サン・フェリーペ号事件)などもあり、幕府はカソリック国による宗教的な浸食を警戒を強めるようになる。

もうひとつの事実。

ポルトガル人により人身売買がある。

秀吉が九州平定の際に博多で、ポルトガル人による少年少女の人身売買があったことを認識した。その数約5万人ともいわれている。

こうした子供たちの人身売買はポルトガル人が積極的に手を染めたというより、子供らの「人身」は日本の戦国から江戸時代にかけて日本の戦乱に中で生み出されたもの。

ポルトガル人の弁明は、日本側が差し出すので買ったまで、と申し開いたという。

戦乱の犠牲者は、若くしてポルトガル船に乗って東南アジアに国々を中心に運ばれていった。

当初信長のキリシタン保護を踏襲した秀吉だが、こうしたことから1587年バテレン(伴天連)追放令を出すに至る。

(続く)

(学23期kz)

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