そうだったのか、日の丸・君が代

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年7月 トピックス】

まもなくパリオリンピックが始まる。

表彰式につきものの国旗と国歌。

日本人が表彰台に上がれば、日の丸と君が代だ。

国旗と国歌の起源

各国とも、国旗と国歌の歴史は古いのか。

そうではないのだろう。

日本でも「日の丸」や「君が代」も、古くから、ある地域で、またはある儀式で、限定的に用いられていたようであり、その限りで歴史は古い。

しかし各国とも、統一国家としてのシンボルである国の旗と国の歌が用いられたのは国民国家が成立した時であろうし、そうであれば、遠い昔のことではないはずだ。

ペリー来航が1853年で19世紀半ばのこと

国が開かれ、異国船があまた行き交うようになれば、遠くからでもどこの国の船か判別が付くように国旗を掲げ、また、降り立った使節団を迎える折には儀礼上、国歌を奏で合うことになった。

日本の国旗と国歌。

その起源を調べてみると・・・

◆「日の丸」のルーツ

日の丸は、聖徳太子が遣隋使に託した、赤い太陽が昇る「日出ずる国」の赤と背景の白、縁起の良い「紅白」となり親しまれている。

また源平合戦の時に、平家は「赤地金丸」、源氏は「白地赤丸」を用いたが、勝った源氏の旗が受け継がれることになったようだ。

幕末においては、多くの外国船が渡来するにあたり、外国の船籍を見分ける必要が生じ、我が国もこれに呼応し、日本国の旗を掲げ航行することが求められた。

定説では薩摩の島津斉彬と海防参与・水戸の徳川斉昭の進言によって「日の丸」の旗を用いることになり嘉永7年(1854年)に布告されたとされる。

この決定については老中首座・阿部正弘から海防掛一同に諮問があり、掛にいた優れものの役人・川路聖謨が「白地に赤の日の丸」に最も積極的に賛成した一人だったという。

◆「君が代」のルーツ

では、君が代はどうか。

元歌は古今和歌集にある。「詠み人知らず」として収められた類似の古歌である。元歌では上の句の出だしが、「君が代は・・・」ではなく、「我が君は・・・(続きは同じ)」で始まる賀歌となっている。

徳川時代、元旦の大奥では、御台所が将軍に年賀の挨拶をする前に「おざれ石」なる儀式があったという。

御台所が身づくろいを整え、廊下に出ると、毛氈が敷かれ、タライの中には石が三つ。

御台所が着座すると、向かい側のお中臈が古歌を唱える。

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の」・・・と。

それを受けて御台所が

「いわほとなりて 苔のむすまで」と下の句を詠う。

こうした元旦の儀式は国持大名級を持つ地域でも行われていたようで、歌の節も似通っていたようだ。

これがどのようにして「国歌」となったのか。

そのきっかけは何だろう。

これには諸説あるようだが、有力な説として伝えられるエピソードは以下のとおりだ。

明治2(1869)年、英国から王家の貴賓これあり、浜離宮でもてなすこととなった。

この時、英公使館に居た軍楽隊のフェントン隊長から、日本の来賓接遇担当者である薩摩出身の原田が問われる。

日本の国歌はどのようなものか、教えてほしい。

問われた薩摩出身の担当役原田は面食らい、慌てふためくが、相談した旧幕臣の通訳官乙骨(おつこち)が、苦し紛れに大奥しきたりの「おざれ石」の節を口ずさんだ。

すると原田が大いに驚く。それならおいどんも存じ申すと。

薩摩にも同じような儀式があったようだ。

これをフェントン隊長に伝え、フェントンが洋風流にアレンジして奏で、その場は事なきを得た。

しかし、フェントンのアレンジは洋風だったため、宮内省の伶人により雅楽の音律を入れて改作され、さらに洋楽の吹奏楽譜を付けたのが海軍雇のドイツ人音楽家のエッケルトという人物だという。曲ができたのが明治13年の話だ。

その後、航海で他国を訪問する海軍が良く使うようになり、我が国で祝祭日に用いられ始めたのが明治半ばからだという。

意外と歴史は浅い。

そして法律として制定されたのは20数年前だ。

「国旗および国歌に関する法律」で国旗・国歌として定められたのは、平成11(1999)年である。

ようやく四半世紀が経ったところだ。

(学23期kz)

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