山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年10月 トピックス】
◆上野が戦場に
薩長を主体とする新政府軍と旧幕府軍との戦いとなった戊辰戦争は明治元(1868)年の鳥羽・伏見の戦いから始まる。
戦場は江戸、北越・東北と移り、最終的には翌年5月、箱館で決着が着く。
こうした一連の戦いの中で、江戸・上野寛永寺が舞台となった内戦がある。
江戸城は無血で開城となり、新政府に引き渡されたが、旧幕府の中には無血開城を不満とする幕臣や徳川家の存続を願う勢力が燻っていた。
幕府の存続・再興に思いを寄せる彼らは、最終的に上野の寺に立てこもり新政府軍と戦う決断をする。
こうして上野の内戦で血が流れた。
それが上野戦争だ。
◆江戸城の主戦派
鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府軍の大将・徳川慶喜公。
軍を大阪に残したまま、海路江戸に戻る。
殿・慶喜公を迎えた江戸城では、東かは薩長の「賊軍」が上がってくるとして対応策を巡って議論が四分五裂、白熱した議論が続いたようだ。
幕臣の中で恭順派の代表は勝安房(海舟)。
他方主戦論、すなわち薩長軍への徹底抗戦派は小栗上野介順正や榎本武揚。
小栗の論拠はこうだ。
東洋一の無敵艦隊があり、フランス仕込みの陸軍伝習兵があると。
そして小栗は薩長を抑えた後、彼が理想とする「郡県制」の徳川絶対主義国家に建設の夢を見た。
ただ、慶喜公は恭順の姿勢を崩さなかった。
◆小栗の進言
西から攻め挙げてくる薩長を中心とした東征軍を相手に、殿・慶喜公に徹底抗戦を主張した。
小栗は恭順を示す慶喜公に対し再考を促し、慶喜公の袖を引いてまでも東征軍と戦うことを進言した。
血を吐くような声だったという。
しかし、慶喜公は
「・・・もうその辺でよかろう。上野、下がりおろう」と小栗を残して奥に消えた。
この時に小栗の運命が決まった。
その直後にお役御免を通告された。
榎本も頑張った。
榎本も「将軍家には腰が抜けられたか」と激しい口調で殿・慶喜公に再考を促すのに必死になった。
慶喜公はそれでも恭順の姿勢を崩さなかった。
結局榎本は江戸を離れて箱館で独立政府を構え、薩長の新政府軍と戦うことになる。
◆慶喜公、江戸城から上野寛永寺、そして水戸へ
実は慶喜公が江戸に戻った直後、1月7日には京から慶喜追討例が出されている。
慶喜公は朝敵となっていたのだ。
慶喜公は、あくまでも徳川家存続のため朝廷への恭順を示すために、慶応4年(1869)2月12日、江戸城を出て上野寛永寺で謹慎した。
4月11日に江戸城が開城した折に、慶喜公は江戸を出て父・斉昭が藩主となっていた水戸に向かう。
慶喜公が旅立って空いた寛永寺が反・薩長軍である彰義隊の本拠地となり、ここで内戦が繰り広げられた。
(学23期kz)