山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年11月 トピックス】
上野戦争の舞台となったのが寛永寺だ。
◆寛永寺・・・その優れた立地
三代将軍家光が江戸城の鬼門(東北)を封じるため、京における比叡山延暦寺に因んで僧・天海が東叡山寛永寺を建てた。
その立地は、道は八方に通じ、海岸にも近く、隅田川という水利にも恵まれていた。
また、古来比叡山の天台座主(ざす)が宮家から座に就くのに相応して、京から宮様を迎えて輪王宮を立て、家康以来の将軍家の霊を祭主させた。
この寛永寺、寺とはいうものの、実のところは「江戸防衛の拠点」として造られたようだ。
これを裏付けるように、大田道灌も江戸城を築くにあたり、現在の場所にするか、上野にするか,
決めかねたとされる。
すなわち、仮に奥州方面から攻め込まれた場合、正面にあたる黒門口だけ守備を固めれば事足りる天然の要塞にもなるとされた。
◆名物僧・覚王院義観
またここには寺を仕切る名物執当がいた。覚王院義観(ぎかん)だ。
慶応3年(1867年)に京から宮様・公現入道親王が見え、輪王寺門跡を継ぐと、義観はそれと同時に輪王寺宮の執当となり、覚王院の号を授けられ、寛永寺の寺務全般を統括することになる。
義観は優れ者で、相当な胆力を持ち合わせている。
広く学問にも通じ、輪王寺宮に諸学を講じ、僧を教える学頭でもあった。
また、彰義隊の思想的・精神的な支柱にもなっていたほか、幕府から財政逼迫を理由に集めた資金500両を「大名貸し」とした益で彰義隊に資金面の面倒を見ていた。
開戦前夜まで、輪王寺宮を守り、戦闘を避けるべく、宮様を動かしてまでも、新政府軍と交渉に向かっている。
宮様を守り、徳川を守る気概が強い。
新政府軍にとって、また戦いを回避したい勝海舟や、新政府の使者・山岡鉄太郎(鉄舟)にとっては手ごわい相手だった。
かなりの頑固ものだ。
この頑固さが、上野戦争の回避を難しくした要因の一つではなかったか。
◆開戦
天野八郎の部隊は寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて寛永寺の諸院に立てこもった。
その数、千人とも、千五百人ともいわれている。最盛期には三千まで膨れ上がったとの話があるが、上野戦争に参加した有志はその時に比べ、半減している。
勝海舟も彰義隊に武装解除を説いたが効を奏せず、新政府軍との摩擦が街中で頻発するに及び、大村益次郎を総指揮官とする新政府軍は彰義隊への攻撃命令を下す。
新政府軍が江戸城大手門前を出発したのが5月15日。連日雨が降っており、当日の早朝は霧雨だった。
5月15日とはいうものの、新暦では7月4日にあたる。
上野の山は蒸れるように暑かったようで、羽織を脱ぎ襯衣一枚の夏支度だったという。
彰義隊は本営寒松院を軍司令部とし、上野の八門(黒門、清水門、谷中門、穴稲荷門、車坂門、屏風坂門、新黒門、新門)に兵を構えた。黒門には最強部隊を配置している。
対する新政府軍の布陣は、薩摩・因幡・肥後が上野寛永寺正面の黒門口を、長州・大村・佐土原藩が背後の団子坂に回り、肥前・津・備前藩がアームストロング砲で側面から援護射撃を行う役回りだ。
開戦8時。
正面の薩摩軍が機を見て突撃を敢行するも、地形が味方していたこともあり、彰義隊の防戦はすさまじく、なかなか黒門は突破できなかったようだ。
午前中は一進一退。彰義隊がよく頑張ったという。
新政府軍には鍋島藩のアームストロング砲2門があったが、威力を発揮したのか。
爆音は周りを圧したが、命中率は悪かったという。
彰義隊が守る黒門を狙ったようだが、崩せなかった。
いや、計画に抜かりのない大村益次郎のこと。
敢えて黒門に命中させなかったのではないかとも思われる。
ものの本には、赤門から発射されたアームストロング砲が黒門まで届かず、不忍池に落ちたとされる。
赤門から上野の黒門まで約1キロメートル。
他方、アームストロング砲の射程距離は3400ヤード、3キロメートルもある。
何しろ、黒門が無傷のままだ。
おかしい。(謎解きは別稿で)
また、アームストロング砲派は空砲のみ3発だったという話もある。
上野戦争が決着が着いたのはその日の午後4時過ぎ。
彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、生き残った彰義隊員は大村が逃走経路として用意していた根岸方面から逃走した。
実質的なリーダーとなった副頭取・天野八郎も戦死はせず、上野の山からは逃げることができた。
天野は再起を期して江戸にも出没していたが、7月に捕縛され、獄中で病死している。
つづく
(学23期kz)
彰義隊の墓(上野公園)
銃弾の跡