そうだったのか、上野戦争 ⑤戦い済んで・・・

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年12月 トピックス】

戦い済んだ上野の山。

そこには両軍の戦死者が横たわっていたが、新政府軍の戦死者は早いところ回収され弔われたが、彰義隊の犠牲者は放置されたままだ。

逆賊となってしまった彰義隊。

この遺体をどうするのか。

◆仏麿和尚

箕輪の円通寺、23世住職。信濃の出で普段は学問への造詣が深く、説法も上手な仏麿和尚。

しかし普段は朝から酒ばかり飲んでいて法衣も継ぎはぎだらけ、

寺の畳も破れるに任せていたが、それを恥じる様子はない和尚。

その和尚が上野戦争の直後、上野の山に登る。

そこには、放置された彰義隊の遺体、200体余りが放置されていた。

彰義隊は新政府にとって「国賊」となり、弔うことは新政府への反抗と受け取られかねない。

しかし、このまま放置しておくことはできない。

そこに彰義隊を支援してきた錺職問屋・三河屋幸三郎が通りかかり、仏麿和尚と三河屋は相談の上、新政府に遺体の弔いを願い出る。

案の定、和尚は新政府に捕縛される。

それでも10日後には釈放され埋葬許可が下りた。

火葬を終えた遺骨は和尚の円通寺へ運ばれた。

こうして円通寺は明治の初期において「賊軍」徳川家の出身者の供養を行える唯一の寺となった。

◆三河屋の後日談

三河屋幸三郎は慕うことになった仏磨和尚に30両を差し出す。

和尚は瞬く間に30両を酒に使ったという。

次の30両も酒に消えた。

その次の30両も。

都合、90両を飲み干したと。

このため三河屋は立腹し、和尚との交際を断った。

・・・

仏磨和尚は新政府の手前もあったのか、飲んだと見せかけて、90両を旧幕臣をはじめ生活に困窮した者に分け与えていたという。

その話がどこからか聞こえてきた三河屋は真の事情を知って、仏磨和尚の円通寺の檀家になったという。

仏磨和尚、明治45年に66歳で没する。

南無阿弥陀仏。

◆黒門の移築

彰義隊の守りのシンボル黒門は明治40年に円通寺に移築された。

しかし国によって史跡とは認められず、保全資金もないまま放置されていた。

現在のように寺の正面に、全面的に補修・再建されたのは昭和60年である。

◆円通寺訪問

南千住駅を降りてすぐに吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎の墓が置かれている小塚原回向院があるが、円通寺はここから近い。

曹洞宗の寺で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の開創といわれている。

上野戦争(慶応4年5月15日)での彰義隊の遺体266体を上野で火葬し、円通寺で収骨した太政官の許可状に「懇に供養すべし」とあったことから、正面切って「賊軍」となった彰義隊犠牲者の法要のできる、当時唯一の寺院であり、その縁で帝室博物館に展示されていた旧上野黒門が明治40年、円通寺に下賜されている。

黒門のすぐ裏手には彰義隊関係者、旧幕臣など戊辰戦争の関係者の墓や慰霊塔が集められ、柵に囲まれた一角がある。

円通寺には、彰義隊関係者、榎本武揚、永井尚志、大鳥圭介、医者・高松凌雲旧幕臣など戊辰戦争関係者の慰霊碑のほか、新門辰五郎之墓碑、仏間和尚ともに遺体の弔いを大総督府に願い出た三河屋幸三郎の墓もある。

(学23期kz)

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