慶喜公、その外れた思惑 ②鳥羽・伏見の戦い

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆戦いの前夜、薩摩の挑発

討幕を目指していた薩摩は大政奉還で名目を失った。

西郷は討幕の口実を作らんがため、江戸の薩摩勢力に指示し、町荒らし、放火、挑発行為を行っていた。

これに業を煮やした佐幕派の庄内藩が三田に近い江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを実行。

この話が大阪城に伝わったのが、慶喜が二条城から移った年の暮れの12月28日だった。

これを聞いた主戦派(会津、桑名、新選組)は沸き立ったという。

諸藩の江戸での「薩摩憎し」の情念を抑えきれず、翌慶応4年(1868年)1月1日、慶喜は討薩の表(ひょう)を著す。

慶喜は天皇のいる京都近郊での戦争を嫌い、決して戦端を開かないよう命じたとされる。

旧幕府軍の京都への進軍は、薩摩の勢力を京都から追い出し、慶喜自らが改めて上洛して新政府を立ち上げるための、露払いとしての軍事行動という位置づけで、会津、桑名などが京都をめがけて進軍した。

しかし、1月3日、薩長軍が発砲した。

旧幕府軍は、結局西郷の挑発に乗った形で鳥羽・伏見の戦いが始まった。

しかし何と、ここで幕府軍が敗れてしまった。

幕府側の読みでは幕府軍の圧勝する戦いのはずたったのに。

なぜあ。

もともと、戦闘は予定していなかった。そこへ薩長から攻撃を仕掛けてきたため、準備不足の幕府軍は大阪城に逃げ帰る。

どうする、慶喜。

ここで慶喜が徹底的に薩長軍と戦っていたら、事態は変わっていた

という識者が多い。

そうかもしれない。

しかし、慶喜は戦うことをしなかった。

薩長軍の奥には天皇がいる。

天皇がとられた形になっている。

ここで徹底的に戦えば、朝廷に向かって銃口を向けることになる。

ここで慶喜は恭順を選ぶ。兵を残したまま、江戸に戻り、朝廷への恭順を示した。1月6日、榎本武揚がいない開陽丸に乗り、海路、江戸へ。

慶喜は頭脳明晰で機をみるに敏であったために移り気に見え、育ちの良さからくる優柔不断もあったとされる。

その直後、朝廷は慶喜追討令を出すに至る。

慶喜は朝敵となった。

江戸の小栗が分析した両軍の比較がある。

京都進軍幕府総兵力 23700

うち(幕府直属軍の16400、及び会津・桑名など諸藩連合兵)

幕府直属軍は歩兵・騎馬・砲兵の編成。1兵1銃、銃はミニエール銃(照準装置付でライフリング入り)、

火砲はフランス式4斤山砲(4キロ砲弾、射程距離1000メートル)

対する薩長合同軍は6000

歩兵中心。

銃はゲベール銃(照準装置なし、ライフリングなし)

火砲は射程距離700メートル。

幕府が負ける筈はなかったのだが。

兵力について薩長が新式・近代武装で、幕府軍の装備が劣っていたという説は間違いのようだ。

また、慶喜の戦意が希薄だったために負けたというのも逆で、戦う意思のない幕府軍が(慶喜公上京の御先供のため薩長軍が道を譲り入京できるとの読みもあり、)狭い鳥羽街道、伏見街道を密集縦隊で行軍し、薩長から数度、十字砲火を浴びたために敗北、敗北したために戦意を喪失したのだ。

◆錦の御旗

1月4日、淀川北岸に翻った錦の御旗三本。

これが決定的な要因で、これによって慶喜公は腰砕けになったようだ。

そもそも「尊王」教育を父・徳川斉昭から刷り込まれていた慶喜は天皇への恭順の途を選ばざるを得なかったのだ。

(学23期kz)

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