彰義隊員、その後の運命 ①名誉挽回組

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆渋沢成一郎

上野彰義隊では一時頭取になった渋沢成一郎。

しかし、上野戦争を戦う前に副頭取天野八郎と対立し、彰義隊を脱退した。

蝦夷へ行き箱館戦争に参加するが、箱館戦争が終ろうとする直前に旧幕府軍を脱走して投降、東京の軍務官糾問所に投獄されている。

その後、2歳年下の従弟で、富岡製糸場にいた渋沢栄一を身元引受人として1871年に出所している。

出所後、成一郎はかつて養蚕に馴染みがあったため、養蚕製糸事業を手掛け、邁進。

当時は政府も外貨獲得のため養蚕事業を推進している折、成一郎の着実な事業成果が政府の眼にとまり、政府の委託調査で渡欧している。

その翌年1872年、大蔵少補事務取扱になっていた従弟・渋沢栄一の推薦で大蔵省歓農寮へ出仕したのち、イタリア、スイスフランスへと派遣される。

大蔵省歓農寮とは、当時大蔵省内に存在した殖産興業、とりわけ農業奨励のための部局だ。

その後、渋沢栄一と同時に大蔵省を退官し、江戸の豪商井筒屋をやっていた小野組に入社。

しかし小野組が破産したため、渋沢商店を設立し、独立した。

◆ここからがサクセス・ストーリーだ。

深川で米問屋、横浜で生糸の問屋を経営し、業務の幅を広げてゆく。

経営は順調だった。

財を成して名声を得、東京商工会議所設立の発起人、東京商品取引所の設立、澁澤倉庫、東京人造肥料会社北海道製麻株式会社などに携わる。

こうして名声に磨きがかかる。

◆さて、第一線を退くと余生は白金台で過ごした。

その邸宅は現在の「八芳園」になっている。

また、成一郎の墓は目黒・祐天寺にある。

「成一郎」は武士であった時代の通称で、旧名は「喜作」だ。

大河ドラマ「晴天を衝け」では、高良健吾演じる成一郎は渋沢栄一から「喜助、喜助」とよばれていた。

武士の時代が終わった明治以降は、再び喜助と名乗っており、墓石には「渋沢喜助」と彫られている。

【文末の写真参照】

参考

◆輪王寺宮(北白川宮能仁親王)

京からお見えになった若き宮様で、明治天皇の叔父にあたる。

上野戦争では彰義隊が担いだ宮様だ。

上野戦争後、江戸市中を転々とし、品川沖にいた榎本武揚の出迎えを受けて、「長鯨丸」に乗り込み、北茨木の平潟港から上陸、会津に向かい、新政府と対立していた奥羽越列藩同盟の錦の御旗として受け入れられた。

しかし、米沢、仙台、会津が新政府に降伏すると、輪王寺宮は降伏、京都の実家伏見宮家で謹慎と相成った。

明治3年に還俗して伏見宮に復帰、明治5年弟が継いでいた北白川宮を相続し北白川宮能仁(よしひさ)親王と称した。

さすが宮様だ。

プロシア留学を経て軍務につき、陸軍少将、陸軍中将となり、近衛師団長に任じられる。

名に38年(1895年)台湾出征中に、病没した。

北の丸公園には銅像が建っている。

【画像参照】

(学23期kz)

渋沢成一郎
渋沢成一郎(喜助)の墓 目黒。・祐天寺
北白川宮能仁親王(輪王寺宮)像 北の丸公園

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