山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年9月 トピックス】
いわゆる特別会計の撫育方。
◆その財源と支出先
この撫育方の財源はどこから生まれたのか。
7代毛利重就(しげたか)公は、宝暦11(1761)年から3年かけて行なった萩藩内の検地により得た6万余石のうちの4万石余のほか、馳走米(禄の召し上げ)、新開発田畑からの収穫物、没収石、減石、藩の余裕資金の組み込み、経費節減の工夫などを集め撫育方とし、一般会計から切り離した勘定を創設し、運用を命じた。
撫育方はどのように使われたのか。
重就公はこうした資金を主に、塩田の開発、港町の整備など産業の開発に充てた。
特に、白石正一郎の竹崎(清末藩領)の隣地で北前船が発着する西部下関の伊崎新地(長府藩から譲り受け)の開発と、そこでの越荷方の展開は、後年19世紀半ばの村田清風の天保改革における越荷方での利益創出につながっていったようだ。
ここでの積み荷を担保にした金融(資金融通)による利息や積み荷の保管料は撫育方、つまり一般会計とは別の財布である特別会計に計上された。
【越荷方については別稿で記す】
また、撫育方は困窮した民にも貸し与えられ、民の救済にも用いられたという。
◆四境戦争の戦費にも
撫育方創設から100年、撫育方の本当の出番がやってきた。
四境戦争(幕・長戦争)、馬関戦争を経て戊辰戦争へと続く戦。
この戦費は撫育方によって十分に賄われたようだ。
明治に入り、廃藩置県により藩の財政は朝廷(中央)に帰属することとなったが、撫育方は毛利家の私財として扱われた。
戊辰戦争が終わった時点で撫育金の残高は100万両あったと推定されており、毛利家最後の殿様となった十四代元徳公は、そのうち70万両を新政府に献納している。
特別会計、恐るべし・・・
財政再建の切り札であり、260年来の念願である「徳川の幕引き」を裏で支えた資金の源が撫育方であった。
(学23期kz)
