山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年3月 トピックス】
◆明倫館の創設 第5代・毛利吉元(1677~1731)
長州藩でも財政が逼迫していた。
財政が逼迫する中では家臣の士気も低下する。
財政悪化を食い止め財政再建を進める必要があるが、その担い手、財政改革を進める人材がいないという問題に突き当たった。
このため倹約や経費節減に取り組み、参勤交代に関わる人員削減にも努めている中であっても、この先中長期的に財政の悪化を食い止める藩政改革の実施を遂行する人材を育てんがために、文教予算を捻りだし、人材育成機関を設立した。
藩校明倫館の創設だ。
5代藩主吉元(1677-1731)の時にあたる。
ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。
◆明倫館が出来上がったのは享保3年(1718)12月。
江戸後期当時、全国で300ほどあった藩校のうち13番目の創建だった。
明倫館では、940坪の敷地に孔子、孟子などの賢人を祀った大成殿が中心に置かれ、学問寮、兵法場、手習い所、剣術場などが配置され、明倫館は建物の構造、教育内容、儀礼式典など湯島聖堂を模したものだったという。
また、明倫館の新設にあたり、教える側、すなわち教員の身分も引き上げており、この結果、己の身分を誇れる職場として、優秀な教育者が集まることとなった。
また、同時に親が裕福とはいえない学童には給費支援制度を設け、教育の機会を広げる策も講じている。
ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。
◆初代学頭は湯島聖堂の竣工に合わせて大学の頭に任じられた林鳳岡(ほうこう)に学んだ儒学者の小倉尚斎。
そこでは朱子学が講ぜられたという。
2代目が徂徠学の山縣周南であった。
「明倫館」の名付け親である。
「明倫」とは孟子の言葉で「(文教が)人倫を明らかにする」、すなわち文教が人の守るべき道義を明らかにするという意。
「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、下、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい、国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」
教育内容をみると、旧明倫館では初代学頭小倉尚斎の時には朱子学が教えられたが、2代目学頭の山県周南は荻生徂徠の「古文辞学(古学)」だ。
すなわち朱子学や陽明学のように朱熹や王陽明の主観的な見解によって孔・孟を解釈するのではなく、孔子、孟子の原点に立ち返ることを目指した。
また、徂徠は為政者が優れていれば民衆もよく治まることはなく、世を治めるためには社会の仕組み、制度の改変が重要であること、また人材については、身分制度にとらわれず、能力に応じた人材登用を行うべきとの革新的な意見を持っていた。kogaku
(学23期kz)

毛利吉元公