山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年4月 トピックス】
山口大学の前身は数々の困難や存続の危機を藩主の支援のほか、地元や地元縁者の支援を受けて乗り越えてきた。
◆維新の学校制度改革
明治3(1870)年に「大学規則」、「中小学規則」が発付され、小中学校を経て大学に至る「進学」という概念が示され、小学と中学の区別が導入される。
ここで、藩校明倫館所轄の講習堂(例えば三田尻講習堂)や支藩が設立した学校、これまでの郷校が小学に移行。
他方、萩明倫館は萩中学に、山口明倫館は山口中学に改称された。
明治5(1872)年には、義務教育の確立へ向けて「学制」が発布され初等・中等教育の充実が重視されたが、制度の充実を図るに足る財源がなく、国からの財政支援もなかったために苦労する。
このため県は(前年に廃藩置県で山口県発足)県内の中学を廃止し、形が整うまで一時に「変則中学」とした。
しかし、「変則中学」の経営も厳しく、グレードダウンして「変則小学」にしたが、それでも経営を持続することは難しかったため、とうとう閉鎖に追い込まれた。
ここで毛利家の登場と相成る。
◆毛利家が学校制度再興資金の大部分を寄付し、翌年変則小学が私学として再スタート、その校舎は「鴻城学舎」と呼ばれた。
その再興から3年後、山口中学(私立)に改称されたが、毛利家経営の「私立」であった。(山口中学1校のみ)
この時の山口中学は入学資格が14歳以上、就学期間は5年。
通常の教科を学ぶ尋常中学科(3年)に続き高等中学科が置かれ、これが次の県立中学校の基礎となる。
山口県側は旧藩家や在京の県出身者、県内の有志に寄付を依頼。集まった基金で明治13(1880)年に県内に5つの県立中学を設立する。(山口、萩、岩国、徳山、豊浦)
この5つの県立中学には年限3年の尋常中学が置かれ、さらに進学希望者は他の4校からも県立山口中学の高等科へ進むこととされた。
この時にも県立中学の経営は厳しかった。
つづく
(学23期kz)
