高杉晋作のはなし その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年8月 トピックス】

騎兵隊を創った人物として知られる高杉晋作。
「関して恐ろし 見ていやらし 添うて嬉しい騎兵隊」

高杉の生き方は、松陰の教え通りの人生だったのではないか。

松陰曰く

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。
不朽の高杉晋作となったかにみえる・・・

騎兵隊は下関で生まれた。資金は廻船問屋で「勤王商人」の白石正一郎が出したのだ。

白石は勤王の志士と交わりがあり、西郷とも自宅で会っている。

しかし白石は西郷と会った時以上に、高杉と出会った時に衝撃を受けたという。

高杉の人生は不思議な人生。

不思議で奇跡的な功績が付いて回る。

◆功山寺挙兵

これも不思議な話だ。

よくできた話だ。

本当か?

いわゆる元治の内乱の話だ。

元治元年(1864年)、7月に禁門の変、8月に四か国連合艦隊下関襲撃事件で急進派(改革派・いわゆる正義派)が勢いを無くし、同時に幕府への保守派(幕府への恭順派・いわゆる俗論派)、椋梨藤太が勢いを増した。

保守派の下で、1965年5月、幕府の第1次長州征伐に際しては、四か国連合艦隊の攻撃、賠償請求もあり、長州藩は窮地に立たされており、幕府の申し出に従うほかはなかった。

また、今は国内の勢力同士が戦い合う場合ではないという西郷の判断もあり、長州藩主親子の詫状差し出し、3家老(益田右衛門介、国司信濃、福原越後)の切腹、5公卿の太宰府への移居となり、椋梨の政敵・周布政之助も失脚した。

急進派の一団・「甲子殉難十一烈士」は野山獄に投獄され、後に粛清された。

このように第1次長州征伐は戦わずして終結した。

この時急進派の高杉は一時潜伏し、福岡の野村望東尼のもとに身を寄せる。

◆しかし、高杉は長州藩を生き返らせ、輝きを取り戻すには、統治能力を失った幕府を倒すこと、またそのためには萩の保守派(俗論派)を倒すことを目指して挙兵する。

1864年、雪の舞う12月、高杉26の時。

この時には騎兵隊は立ち上がっていたが、騎兵隊総監(管)赤禰武人や軍監・山縣有朋も当初は同調しなかった。

結局高杉に賛意を示したのは伊藤俊介(博文)と彼が率いる力士隊30名だけというありさまだったという。

この時の高杉の心意気。

「たとえ自分一人でもやる」と。

肝が据わっている。

この時は、高杉の後を追う者があったとしても、勝算があったか否か定かではない。

(学23期kz)

功山寺(下関市長府)

One thought on “高杉晋作のはなし その2

  1. 私は、幼稚園から小2まで福岡の平尾山荘から徒歩1分のところに住んでいました。山荘は、父と兄のお陰で自転車の補助なしの初乗りに成功したり玉虫や蝉とり、紙芝居を楽しんだ場所。そんなご縁で今回の投稿を興味深く拝見しました。また第1回NHK大河ドラマ「花の生涯」で高杉晋作をかくまった場所として取り上げられ知名度が上がりました。

    野村望東尼が高杉晋作を助けたご縁の場所で幼少期を過ごしたこと、そして山大経済を卒業して東京で働き始めてすぐに、花の生涯で井伊直弼の家臣の長野主膳役〈国学者〉を演じた故佐田啓二の奥様や娘の中井貴惠さん、中井貴一さんのお宅をお客様として担当したご縁にも恵まれました。今回の投稿で幕末の出来事を身近に感じる機会を改めていただきありがとうございました。
    (学23 H.M.)

    〈ご参考〉平尾山荘
    高杉晋作をかくまった場所(1864年11月に10余日、山荘に滞在)。1867年4月14日没(29歳)。望東尼(ぼうとに)は同年11月6日没(62歳)。

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