山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年8月 トピックス】
元治元年12月15日(1865年1月12日)、功山寺の挙兵では、後に石川小五郎率いる遊撃隊50名も参加し、80名で奇跡を起こす。
12月15日、雪が降る中、80人が功山寺を出て未明に下関の藩の新地会所を襲って占拠し、軍資金や武器弾薬を奪って萩の保守派政府(いわゆる俗論派)に宣戦布告した。
さらに高杉は三田尻に向かい、藩の軍艦3隻を奪って下関に戻った。
これにより山縣有朋も方針を転換せざるを得なくなり、高杉の軍勢いが強まる。
萩の正規軍も反乱鎮静軍として、軍勢は3800人。
しかし、高杉軍は山縣らの参道により兵の増強もあったが、それでも2000名。しかし奇襲攻撃で鎮静軍を撃破した。
1865年7日から16日までの「大田・絵堂の戦い」により、高杉軍(正義派)が椋梨の保守派(俗論派)を打ち負かし、再び藩の主導権をとった。
こうして長州は急進派・改革派・正義派主導で四境戦争(第2に長州征伐)を経て、維新へと突き進むことになる。
ここでも奇襲戦法で、幕府軍をかき回した。
刀のように実態を超える、出来すぎた幻の高杉晋作像でなければ良いのだが。
四国艦隊との賠償問題解決(1864年9月)、彦島引き渡し拒否、本当にそうだったのか。
細部がよく伝わってない。
どうもぼやけているように気がしてならない。
不透明だが、結果はうまい具合に伝えられている。
しかし、やはり、歴史精通者の解説を聞くと、電撃・奇襲作戦で、勝ちを引き寄せているようだ。
◆四境戦争(1866年6月)
四境戦争(第2次長州戦争)では小倉口を任された高杉。
幕府軍数万に、高杉騎兵隊4千。
ここでも奇跡的な勝ち方をしている。
高杉の奇襲攻撃を受けて、政府軍の大型艦船が傷の拡大・沈没を恐れて撤退したため、奇跡的な勝利を得ている。
この時にも高杉は、歴史家や軍事の識者をして「軍事の天才」と呼ばせている。
◆彦島租借案件
下関事件の後始末で連合艦隊との交渉役でも、高杉が呼ばれ、スポットライトが当たった。
当時は脱藩の罪で牢につながれていたが、藩庁から胆力を買われて交渉の担当役に抜擢されたのだ。
下関事件の果てに300万ドルの賠償金問題と彦島租借問題が持ち上がった。
賠償金問題については、長州藩は幕府が命じた異国船打ち払い令を実行しただけとの理由で支払いを拒否、幕府側の問題であるとして、逃げることに成功した。
四国連合は賠償金支払いに難色を示した場合、下関開港を要求しようとしており、開港となった場合、その大きな利益を産む海外貿易のメリットが長州藩に生まれるため、賠償金の支払いに応じることになったものだ。
もう一つ彦島租借問題が残った。
高杉は租借となった場合について、上海で身をもって体験しており、何としても租借問題を回避したかった。
事実はよくわかっていないが、当時通訳として交渉の日本側通訳の一員として入っていた英国帰りの伊藤博文によると、交渉にあたり古事記のくだりを長々と諳んじて、交渉相手を辟易させたようである。
しかし真実のところはわからない。
結局彦島租借は立ち消えになったが、これには租借を要求する英国にフランスが抵抗したというのが実情ではないか。
仮に租借が実現できたとしても当時、島に海兵隊を駐留できるのは英国だけということもあり、フランスが反対したこともあり、結局彦島は無傷となった。
つづく
(学23期kz)

彦島(下関の南端)Wikipedia