三人の財界巨人 その23 久原房之介⑩ 

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2026年10月 トピックス】

◆小平浪平への声掛け

「電気のパイオニア」、「電気王」と呼ばれた小平浪平。

明治39年、小平(おだいら)が東京電燈(現・東京電力)にいた当時、久原房之介に声を掛けられる。

「水力発電関係の機械を作るにあたり指導してほしい、一緒に働かないか」

新鉱山である「日立鉱山」に来ないかとの働き掛けだ。

当時、小平は久原房之介が小坂を去り、藤田組本店に行った後、小平も小坂を去り、広島の「広島水力電気」、次に「東京電燈」へ転職していた。

東京電燈は東京電力の前身。大会社だ。

日立鉱山行きを相談した友人の中には、真剣に反対した友人もいたという。

片や大企業、片や名前も売れていない新たな鉱山事務所。

しかし、小平には自前の工作機械を作りたいという熱い夢を持っており、大会社で歯車の一つとして働くことに疑問を感じていた。

また、小坂鉱山時代に房之介の人柄を信頼していたこと、そして昔の小坂鉱山時代の仲間と仕事ができるとの思いもあったのだろうか、房之介の誘いに乗った。

◆工作課長

日立鉱山での小平の肩書は工作課長。

小坂鉱山時代は電気課長だった。

鉱山周りの設備や工作機械、発電機械を作る担当だったが、鉱山関連機器の修理に追われていた。

当時鉱山で使われていた鉱山関連電気機械は米国製であり、高価でありながら故障が多く、修理に追われることが多かったためだ。

修理に多くの時間を積み上げていくうちに、小平は自ずと自前の機械を製作できるようになっていく。

自分が思い描く機会を、自分が作りたいという熱い思いがあれば、自ずから腕もメキメキと上がっていく。

ある時、小平は担当する機械修理・工作部門を本体から独立させてくれと房之介に相談する。

しかし、久原房之介は小平の要望に首をタテに振らなかった。

久原とすれば、当たればけた外れのもうけをもたらす鉱山に比べ、機械製作は労多くして利幅が薄い物ものに思えたからだ。

◆しかし、小平は諦めなかった。

日立鉱山には理解してくれる同世代の竹内維彦がいる。

竹内は小坂鉱山での「溶鉱三羽烏」の一人。

小平は東京帝大工学部・電気工学科卒で、竹内は同学部・鉱山冶金学科卒だ。

小平は一高に入るときに浪人、大学で写真に凝って留年し、一浪一留で竹内よりも2年遅く卒業したが、小平と竹内はは同い年だ。

その竹内は小平の「自前の工作機械製作」、すなわち電気機械の国産化を、強力に支援してくれた仲間だった。

小平は修理部門の独立構想、ゆくゆくは工作機械の国産化の夢を決して諦めようとはしなかった。

当時、電気機械の国産化は、「奇想天外な発想」とされ、場合によっては「無謀」ともされていたが、小平は頑固だった。

小平は夢を諦めることなく電動機、変圧器、発電機と作り上げていき、とうとう業界を驚かせることになる。

つづく

(学23期kz)

小平記念館(茨城県日立市 昭和31年竣工)

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