山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2025年11月 トピックス】
◆松山での出会い
漱石は明治28(1895)年に旧制松山中学に赴任する。
漱石、28歳の時だ。
三島由紀夫が終戦の年・昭和20年に20歳となったように、漱石も明治の年代と年齢が重なる。
すなわち、山口高等商業学校が創立された明治38年に、漱石は38歳。
この年に「吾輩は猫である」を発表している。
明治38年といえば西暦1905年。東郷平八郎の連合艦隊が露バルチック艦隊に勝利した年でもある。
話を松山に戻すと・・・
後に山口高商の校長となる横地石太郎は、東京から赴任してきた漱石を松山中学で教頭として迎えた。
横地石太郎は、翌3月に松山中学の校長になるが、その年の4月、漱石は熊本へ転勤した。
1年ほどしか松山にいなかったことになる。
しかし、松山での漱石の足跡は色濃く、野球場、路面電車、食べ物、土産物など、いたるところに「坊ちゃん」の名前が付いている。
◆「森の都」熊本へ
漱石は松山の生活が合わなかったようで、1年で松山を去る。
向かった先は、第五高等学校教授になっていた親友・菅虎雄のいる熊本だ。
池田停車場(現・JR上熊本駅)から人力車に乗って菅虎雄邸に向かう途中、高台から眼下に広がる市街地を見て「森の都」と言ったという。
「森の都」とは熊本に付けられた決まり文句だが、漱石が作ったフレーズだったとは。
ひとつ勉強になった。
昭和3(1928)年に作られた熊本県立第二高等女学校の校歌に「森の都」のフレーズがあるほか、昭和5(1930)年制定の熊本市歌にも「森の都」と歌われている。
また、昭和47(1972)年には熊本市議会が「森の都宣言」を出しており、街づくりのキャッチフレーズにしたのだろう。
ただ、金沢も森の都と言われているらしい。
昭和7(1932)年に作られた旧制第四高等学校の寮歌には「森の都」のフレーズが見られ、また、昭和49(1974)年に金沢市議会が「緑の都市宣言」をし、その中に「森の都金沢」というフレーズがあるようだ。
しかし、金沢は少しばかり熊本に、フレーズの採択で遅れを取っている。
他方、杜の都となれば仙台だ。
◆熊本での漱石の影
漱石は熊本で、文部省からロンドンヘの留学命令が出るまで4年3か月を過ごしている。
熊本滞在の間、結婚もし、子供も生まれた。
漱石の妻は貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子だ。
そういえば・・・三島由紀夫の作品に「鏡子の家」という作品があった。
結婚式は明治29(1996)年、漱石29歳の時。
熊本・光琳寺の借家で式が執り行われたとされ、東京から来た新婦の父や東京から連れてきた婆や、それに車夫など6名ほどが集った、つつましい式だったという。
漱石31歳の時に、鏡子のヒステリーが激化。
翌年に長女・筆子が生まれた。
個人的にはいろいろなことがあった4年余であろう。
しかし、熊本市民にとって漱石の影は薄い。
松山に1年に比べても、熊本での漱石の影は、かなり薄い。
なぜだか・・・
◆引っ越し
熊本滞在期間中、6回も引っ越ししている。
引っ越ししたことにはそれぞれ理由がある。
妻の鏡子が神経質だったこともあるのだろう。
古い借家は嫌だ、墓の近くは幽霊が出る、使い勝手が悪い、家賃が高い、川の近くは危ない・・・
帝大出で高給取りの夏目・五高教授もカミさんには弱かったようだ。
つづく
(学23期kz)

建物上部の「1905~」の表示は、本校が明治38(1905)年に創立されたことを示す





