―横浜市北部ボランティアガイドの視点―
6月の長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)では勝海舟の旧居を訪ね歩いて維新前後の歴史に思いを馳せた。勝の最大の功績は「江戸城無血開城」の立役者であることに異論は無かろう。
一方、徳川慶喜の直接の命により山岡鉄舟が官軍参謀の西郷隆盛の元(当時駿府に駐留)に単身乗り込み、慶喜恭順の意向を伝えて無血開城のお膳立てを整えている。鉄舟が江戸を発つ前日に赤坂の勝海舟宅を訪れて西郷への書状を預かった事で、勝海舟が鉄舟を西郷の元に派遣したと世間で思われていることが多いようである。しかし、その日が二人の初対面である事が海舟日記に記されており、そうでないことが分かる。
◇門人仲間
ところで、鉄舟が神田の千葉周作道場に通っていた時に門人仲間である日本橋山本海苔店の2代目の山本徳治郎と親しくなった。店の初代夫婦が現在の横浜市港北区の吉田村と南綱島村の出身であったことから徳治郎も吉田村から養子に入り、山本海苔店の身代を大きくすることに貢献した。その関係で、鉄舟は維新前から吉田村に何度か逗留して近隣の村人と親しんだ。現在も吉田町の若雷神社には鉄舟の揮毫が残っている。
因みに明治になって、西郷隆盛の推挙により鉄舟が明治天皇の侍従を務めていた時に天皇の京都行幸に際して江戸土産を鉄舟から相談されて徳治郎が考案した味海苔が味付け海苔の元祖と言われている。(山本海苔店ホームページより)
◇名主
言わば、駿府に向かって多摩川を渡った神奈川の地は鉄舟にとって馴染みの地であり名主や村役人にも顔見知りが多かったが、その事が後に思わぬ効果を発揮する。
と言うのは鉄舟と西郷の会談が終わった後、官軍が駿府から江戸に向けて陣を進める中で北綱島の名主で鶴見川下流48ケ村の代表名主を務める飯田助大夫(現在も同家の長屋門が残る)が農兵を組織して果敢に官軍を迎え撃った。捕まって多摩川の河原であわや処刑される寸前に鉄舟の口利きで一命をとりとめたと伝わっている。(この話は約50年前に土地の古老が先祖から聞いた話をまとめた郷土誌「港北百話」に記されており、事実の確証こそないものの鉄舟が村人からいかに崇敬されていたかよく分かる)
◇一枚上
ここで最初に戻る。世間では江戸城無血開城は勝海舟一人の功績のように思われているが、この理由は明治14年に政府が維新の功績調査をした際、勲功禄を提出した勝に対して鉄舟は沈黙を守って勝に栄誉を譲ったことによる。
勝海舟が稀代の人物であったことは歴史が証明しているが、こと男(武士らしさ)という点では山岡鉄舟が一枚上であると考える所以である。
(山口大学経済学部22期生 Y)