8月15日は終戦の日。困難な戦争終結という大仕事を成し遂げたのが鈴木貫太郎首相である。彼は2.26事件で襲撃されている。
6月に行われた長州歴史ウォーク(鳳陽会東京支部主催)の集合場所は東京ミッドタウン裏の檜町公園。その昔、江戸の長州藩下屋敷があったところで、戦前は陸軍第一師団第一歩兵連隊、戦後は進駐軍の接収を経て防衛省の前身となる防衛庁が置かれたところだ。2.26事件で第一歩兵連隊の蹶起部隊はここから首相官邸に向かう。
◇気になる青年将校
2・26事件に出てくる青年将校の中に気になる人物がいる。安藤輝三大尉だ。英語教員であった父の三男として岐阜に生まれた安藤。早くから革新的青年将校の指導的存在であったという。日蓮宗を信仰しており、彼の容貌は軍人らしくなく柔和。軍服姿の写真が残るが、軍服姿はあまり似合っていない。
部下を愛する気持ちが人一倍強く、給料のほとんどを部下に割き、地方の窮状を話す農村出身の部下には、自分の給料から部下の家族に送金したという。情に厚く、部下の寄せる信頼は大きかった。安藤は他の青年将校と異なり、蹶起に慎重で、決行直前まで悩み抜くが、結局同僚・部下の志を受け止める形で蹶起を決意する。
◇侍従長襲撃
第三歩兵連隊に属した安藤が500名の大部隊を連れて向かうは、海軍大将上がりの鈴木貫太郎侍従長宅。
下士官が侍従長宅を捜索すると、激しい叱責の声が飛ぶ。「あなたは何です。土足のまま無断で入るなど、それでも帝国軍人ですか!」。
声の主は鈴木の妻、たか。度肝を抜かれた軍曹は怯み、敬礼し、部屋を去ったという。たか夫人の胆力たるや、ただ者ではない。
鈴木自身は自宅内に身を隠していたが再考し、身を隠すことを良しとせず、襲撃者たちの前に自ら姿をさらす。それを下士官が見つけ、発砲。倒れる鈴木。駆け付ける安藤。安藤が夫人に襲撃目的を告げると、たか夫人は虫の息となった夫の脇で正座し、微動だにせず聞いたという。
◇とどめは刺さず
鈴木の回顧録では、下士官が銃口を喉に当て、とどめを刺すか安藤に判断を仰いだところ、「とどめは止めておけ」と言ったという。
他方、下士官の証言録では、鈴木に命脈があったため、安藤が「とどめを・・・」と軍刀を抜いたところ、夫人が「それだけは私に任せて欲しい」と訴え、安藤は夫人に任せたとされる。
いずれにせよ、安藤はとどめを刺すことを止めた。
安藤はここまでに至ったことを夫人に詫び、鈴木に対し挙手の礼をし、また下士官に捧げ銃を命じ、素早く立ち去る。たか夫人は鈴木を抱き起し、手際よい措置で鈴木の一命を取り留めた。
とどめを刺すことを止めた安藤。情が動いたのかもしれない。実は蹶起2年前、安藤は侍従長宅を訪ねている。予想と違い“西郷隆盛にも似た懐の深い大人物”の鈴木に惚れ、座右の銘を書いてもらっていたという。また、鈴木も後日談で、この時の安藤を「思想的には実に純真な、(死なせるには)惜しい若者」と評している。
また安藤は、たか夫人について、その存在を当時、軍の上司であった秩父宮から聞いていた。たか夫人はかつて昭和天皇、秩父宮ら皇子たちの養育係を務めていたのだ。
◇終戦の大仕事
こうして一命をとりとめた鈴木侍従長は、昭和天皇から厚い信頼を得ていたため、天皇直々に請われる形で1945年4月に首相となり、陸軍の反対を押さえて、ポツダム宣言受諾をはじめ、終戦の段取りを仕切るという大仕事をなした。
終戦間際のエピソードをひとつ。
鈴木が首相になって1週間も経たないうちに米ルーズベルト大統領が病没した。
ドイツでは万歳を叫び、ヒットラーはルーズベルトを「戦争を拡大した扇動者として歴史に名を刻む者」と評した。
他方、鈴木はどうしたか。米国民に対し哀悼の意を表明したのだ。大戦真っただ中での敵国指導者逝去への弔意表明。米国では驚きをもって受け止められ、新聞には鈴木の談話全文が掲載、欧州紙からも称賛された。
ドイツ人作家で当時米国亡命中だったトーマス・マンは日独指導者の対応について、「人間の品性に対する感性、死に対する畏敬の念、偉大なものに対する畏敬の念。これが日独の違い」とし、生き続ける日本の武士道精神を讃えた。 「武士道」を著したのは新渡戸稲造。たか夫人の父はこの新渡戸稲造と、札幌農学校の同期生であったという。
なお、鈴木のルーズベルトへの弔意表明に対して、不満を持った青年将校もいた。彼らは首相官邸に詰めかけ、2.26事件を思わせる出来事になりかける。しかし鈴木は正面玄関前で、いきり立つ青年将校を前に「日本古来の精神の一つに敵を愛するというのがある」と、穏やかに諭したという。
その時、青年将校・安藤輝三の姿が鈴木の脳裏をかすめたかもしれない。
(学23期kz)