靖国考  その1

第2回・長州歴史ウォークでは、前回のトピックスでとり上げた「大村益次郎」の銅像が建つ靖国神社とその周辺を巡る。

靖国神社がニュースで流れるのは、境内にある桜の標準木のつぼみの開き具合で開花宣言が出される春、それともうひとつ、終戦記念日の夏だ。

 ◇靖国神社の御祭神

靖国神社は明治維新、戊辰戦争、日清・日露から先の大戦まで、名誉の戦死を遂げた246万余柱が祀られている。

また、境内には様々な慰霊碑や像が立っている。東京裁判でインド代表として派遣された国際法のスペシャリスト・Pal(パール)判事の顕彰碑や、軍に尽くした軍馬、軍用犬、伝書鳩の慰霊碑もある。

しかし、沖縄戦や空襲で亡くなった一般人は祀られていない。また、西郷隆盛や乃木大将も祀られていない。

 ◇創設の経緯

靖国 神社が設立されたのは1869年(明治2年)。戊辰戦争終結(同年5月)直後に当たる。

靖国神社の前身は東京招魂社である。その招魂社の原型は、長州藩が英仏蘭米と戦った下関戦争での犠牲者を弔うため、1865年(慶応元年)に高杉晋作が戦地となった下関桜山に設けた招魂場である。その後、江戸城で薩長土肥の将校の招魂祭が開催され、また京都東山でも官軍の戦死者が祀られたのを始め、全国でも幕末や明治維新の戦没者を顕彰する動きが活発する。このため陸軍の創始者・大村益次郎が明治天皇に靖国神社の前身となる「東京招魂社」の創建を献策したことが靖国神社の始まりだ。

 ◇合祀の対象者

設立当初、祀られたのは軍人や軍属であった。ここでいう「軍」とは新政府軍のことであり、旧幕府軍(いわゆる「賊軍」)の会津軍や上野彰義隊などの戦死者は祀られていない。また西南の役で新政府軍と戦った西郷隆盛が祀られていないのはこのためだ。

また、祀られる対象となるのは「戦死」者である。このため、いくつもの勲章で身を固めた退役軍人であっても対象とはならず、殉死した乃木大将もここには祀られていない。

このように設立当初に祀られたのは、新政府成立に寄与した 戦没者 あった。当時官軍を迎え入れた東京の人間は、これまで長きにわたり治めてきた徳川の世に親近感を持っており、 新政府 「薩長の田舎者」の集まりとみていたようで、このため新政府では、こうした一般民衆の感情を一新し、薩長の明治新政府の正統性を誇示し、権威付けをしたかったのだろう。

しかし日清・日露戦争という対外戦争を契機に、祀られる対象は変化する。国内の「内戦」における官軍の戦没者から、「対・外国戦」における日本全国から駆り出された帝国軍人の戦没者を祀ることになる。

 ◇「戦犯」の名誉回復

国際法では講和条約が締結・発効されたときに戦争は終結する。すなわち「戦争状態」で行われた形となる東京裁判という名の軍事裁判の判決も効力を失う。このためサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月を経て、最終的には1958年(昭和33年)に、生き残った「戦犯」全員が釈放された。

ここから彼らの名誉回復が始まる。戦没者も多く、残された遺族の意向や軍人の同僚である戦争犠牲者援護会の意向を汲んで一時金が払われ、恩給が払われた。

また、 遺族や戦没者の同僚の切なる願いは「靖国で会おう」という言葉を残して戦場に散った息子であり、夫であり、同僚たちであり、彼等を靖国神社に合祀してもらうことだったことから、合祀への模索が始まる。

1945年12月にはGHQにより「神道指令」が発せられ、その翌年に靖国神社は国家管理から離れ、宗教法人となった。このため、国の意向ではなく、遺族会や戦争犠牲者援護会の願いを汲み取った靖国神社側の判断で、1959年からBC級戦犯から合祀が始まり、1978年にA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀するに至る。

 ◇新たな施設

靖国神社においては平和を希求することが強調されながらも、戦争肯定的な施設であるように見えるところから、毎年終戦記念日近くの閣僚の靖国参拝ではアジア近隣国からは批難の表明が出され、最近では米国からも「失望」の念が表明されたことは記憶に新しい。

国内はもとより、海外の国賓の誰もが参拝できる施設を作ることはできないものか。

(学23期kz)