去る12月4日に靖国神社の入り口に鎮座する大村益次郎像の前に集合し、千鳥ヶ淵に沿って北桔橋門から江戸城内に入って桜田門に向けて横断し、長州藩邸があった日比谷公園をゴールとする第2回長州歴史ウォークが抜けるような青空の下で開催された。
私は塩塚事務局長から促されてガイドを務めたが、参加者お歴々は歴史ウォークに参加されるだけあって皆さん詳しく、にわか勉強で当日に臨んだ私はタジタジであった。
中でもゴール手前の桜田門は幕末史有数の大事件である桜田門外の変が実行された場所だけに、大雪の降る中での切り合いの跡に襲われた側の彦根藩士の指が相当数落ちていたという先輩のお話が、現場に立つ我々の臨場感を大いに盛り上げてくれた。
私はその場において「桜田門外ノ変」を著述した吉村昭氏が取材を進める中で、現場から逃げた彦根藩士が刀を捨て雪の降る多摩川を越えて寺の前で倒れてその寺の住職に助けられ、後半生を寺男として送ったというエピソード(史実を歩く、文春新書より)を紹介したが、小田急線向ヶ丘駅近くにある広福寺というその寺は私の住む横浜北部からはさほど遠くない場所であることに気づき先日訪ねてみた。
鎌倉時代に稲毛重成という源頼朝の重臣(妻は北条政子の妹)が居城を構えた枡形山のふもとに立つ同寺は重成の館跡でもあり、そのたたずまいは枯れた味に満ちており逃亡藩士が世間の目を避けてひっそりと余生を送った場にぴったりの雰囲気であった。
さらに嬉しいことに、本堂近くに藩士の辞世を刻んだ石碑が立っており、辞世は崩し字で判読できないが裏面には「彦城隠士、畑権助、法名秀元」とあり「文久三年、75歳で建立」とあるではないか。
以下にその石碑と本堂の写真を添付するが、これを記録に残してくれた吉村昭氏に感謝すると共に、鳳陽会員の皆様にはぜひ現地を訪問されて「桜田門外ノ変」余話を味わって頂きたい。 (22期 Y生)