その2 母は強し
赤間関(下関)にあり、志士の拠り所、いわば「維新の舞台裏」であった小倉屋・白石家。
その「白石家の舞台裏」はどのようであったか。
◇万葉集と国学
教養高き白石家。正一郎の父も母も歌を詠み、家には読み込まれた万葉集、源氏物語、伊勢物語、平家物語があったという。
万葉集や源氏物語、これらは国学での研究対象となった古典であった。江戸中期に起こった国学は仏教や儒教などの外来思想を排する平田篤胤(あつたね)の復古神道につながっていくが、平田篤胤の門下生で当時国学の重鎮とされた鈴木重胤(しげたね)が白石家に逗留したことがある。正一郎が42歳の時であった。十日余りの鈴木重胤の逗留期間中に、正一郎は父母共々鈴木から強い影響を受けて鈴木の門下に入り、白石家の宗旨までも仏教から神道に変えている。
尊王敬神で、外来のものを嫌う古神道は尊王攘夷と相性がよい。平田篤胤の復古神道は幕末の尊王攘夷の思想的な支柱となっており、正一郎の、名だたる尊攘志士たちとの交流も心情を深く理解したうえでのことだったのだろう。
◇賑わった白石家のもてなし
昼となく、夜となく客人を迎え、もてなした正一郎。彼自身酒豪であり、もてなす酒の肴はフグ、スッポン、アワビ、ウナギ、鶴の肉など豪華であったという。
客人をもてなすにあたり、白石家の家人はどうしていたか。
正一郎の妻加寿子や弟廉作の妻延子も客人の相手になっており、一家総出でもてなしたという。延子などは喉が良かったというから客人の前で披露し、喝采を浴びていたのだろう。日記からは、白石家のもてなしはいつも賑わっていた様子が伝わる。
白石邸に滞在した折、三条実美が詠んだ歌が残る。
妻子らも 心ひとつに 国のため つくせる宿ぞ さきくもあらめ
◇取り仕切った母・艶子
いつの時代も、またどの家も、不平を言いがちなのは嫁たちだ。白石の嫁や弟廉作の嫁も、正一郎の母・艶子が取り仕切っていたという。
父親の影は薄いが、なぜか。
父は婿養子だったという。それなら合点がいく。
艶子は国学者・鈴木重胤の話も聞いており、尊攘志士の心をよく理解したうえでの「おもてなし」だったのだろう。
母艶子の歌が残る。
ほのほのと 霞わたれる はま松の 波をはなるる 曙の空
庭のへの おちはを夜たた 吹き上げて 声もはけしき 木枯らしの風
手弱女(たおやめ)ぶりにあらず。万葉風の大らかな歌であり、失礼を承知で申せば、堂々たる「益荒男(ますらお)ぶり」とは言えまいか。
薩長の志士も、脱藩浪士も、都落ちの公家も、表沙汰にはできない訳ありの者も、飲み込んでいた正一郎。
しかしその正一郎を含め、不満が出がちな嫁たちも、小倉屋の使用人も、みんな飲み込んで取り仕切ったのが正一郎の母、艶子であった。
母は逞しく、強かった。
艶子も正一郎に負けないほどの酒豪だったのかもしれない。
しかし正一郎の日記にはその話は出てこない。
(学23kz)