◇日向坂の邸宅
麻布「二ノ橋」から三田に抜ける緩やかな坂道がある。日向坂(ひゅうがざか)と呼ばれており、江戸時代前期に坂の南側に徳山藩毛利日向守(ひゅうがのかみ)の敷地があったのが名の由来であろう。ここにはかつて渋沢栄一の私邸があった。
人通りも少なく落ち着いた一帯で、隣がオーストラリア大使館、そのもうひとつ隣がかつて三井財閥の迎賓館として用いられた綱町三井倶楽部であり、優雅で重厚な建物が並ぶ。鳳陽会東京支部の事務所が入る建物も近い。
この渋沢邸、1991年(平成3年)まで国の施設として使われた和風の風格ある建物で、「第一公邸」と呼ばれていた。
もともとは渋沢栄一が都内に有していた6つの邸宅の一つで、江東区深川にあったものを1909年(明治42年)に三田綱町に移築したものだ。当時の建築技術の粋を集めた建物で、部屋数は三十三。この邸宅を渋沢栄一は気に入っていたという。
◇戦争直後の混乱と渋沢邸の物納
渋沢家のお家の事情で渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三が家督を継ぐ。才覚ある敬三は戦中・戦後の混乱期に政府の要職を務め、1944年3月に日銀総裁、4月には大蔵省顧問になり、1946年に幣原内閣、続く吉田内閣で大蔵大臣を拝命する。
当時は戦時から平時への転換に伴い社会・経済が混乱しており、そうした中、敬三は蔵相として経済・財政の陣頭指揮を執ったのだ。
いわゆる「終戦」の8月15日を境に復旧軍人の給与、退職手当、また軍需企業への負債に対する支払い増加などにより通貨発行が急増、それに伴い政府債務も膨れ、府債務残高の国民所得比は250%と急増した。
なお、この「国の借金」の規模はG7で突出して高い令和の政府債務の規模と同程度にあたる。
当時、こうした国債発行によって調達された資金は瞬く間に市中に流れていった。
他方、モノの供給はどうか。終戦後は明らかなモノ不足の時代。こうした中ではインフレの昂進は必然だった。
8月15日から半年でWPI(卸売物価指数)は2.1倍、CPI(消費者物価指数) は2.3倍に急騰している。(なお24年8月までの累積でみたCPIは81倍へ暴騰した)
モノの価格が急速に上がったため、庶民は預金の引き出しに走る。この対応策として、政府は翌年1946年(昭和21年)2月に預金封鎖をし、新円切替えを電撃的に実施した。こうした中、1946年(昭和21年)11月に預金などの金融資産や不動産を対象に財産税(税率は25~90%の累進税率)を臨時的に導入するに至る。累積した債務を償還すべく、強権的な国内債務調整を実施したのだ。
この財産税は渋沢敬三蔵相の発案であり、自ら実施した財産税により三田綱町の渋沢邸を国に物納する。
当時蔵相の私邸物納に大蔵省の職員が反対する中、敬三は財産税の発案者として、税の納付に代えて、率先して邸宅を献納したという。物納した後は寝泊りする部屋に困ることになるが、敷地内の崖下にあった執事の薄暗い四畳半のあばら屋に移り住みながらも、平然たる暮らしぶりを続けたという。
◇第一公邸の移築
この建物、間口はそれほど広くはないが結構な奥行きがある。物納された後は大蔵大臣公邸、政府共用の施設の施設として使われ、1971年(昭和46年)8月15日のニクソンショックの際には通貨外交を所管する官庁幹部が対応策を極秘裏に協議する場となったと伝えられる。
平成に入ると建物が老朽化したことから渋沢栄一及び敬三の秘書役を務めた執事S氏が政府に懇願し、建物の払い下げを受け、Sが当時青森の観光業者社長であったことから三沢の古牧温泉渋沢公園内に三田の渋沢邸を移築したのが、先に述べたように1991年、平成3年のことであった。
その跡地には鉄筋4階建ての中央省庁共用ビル「三田共用会議所」が建てられ、現在でも中央官庁の外国要人応接や国際会議などに使われている。
◇渋沢邸、「ふるさと」東京に戻る
他方、三沢に移築された建物はどうなったのか。
所有者が転々と変わった。一時は星野リゾートの施設にもなったが、最終的にはもともと渋沢邸の建築に携わった大手建設会社が買い取った。この建設会社は渋沢邸を、振り出しの江東区に移築することを決め、こうして三田の渋沢邸は、ふるさとへ戻ってくることになった。
現在移築が進んでおり、昨年暮れには棟上げを終えている。移築が完了するのは来年(2023年)2月頃になるという。
(学23期kz)