上田鳳陽先生

山口大学開学の祖とされる上田鳳陽先生。
名は上田茂右衛門纉明(もうえもんつぐあき)。長州藩下級藩士・宮崎猪兵衛在政の三男として山口大内氷上に生まれる。
山口の中心部に近い大内氷上。山口市の北部に東西二つの鳳翩山(ほうべんざん)があり、号・鳳陽の「鳳」は鳳翩山から、また「陽」は南を意味するため、山の南に位置する出生地・大内氷上を指すとする説がある。
しかし、「鳳」には優れた人物の意もあり、また「陽」は光の差すところでもあることから、「鳳陽」の号には、もっと意欲的な意味が込められていたのかもしれない。

幼少の頃、上田平右衛門清房の養子となり、清房亡き後。上田家を継ぐ。
幼いころから学問、こと文学を好んで学んだという。
寛政12年(1800年)、32歳にして藩費生として萩の藩校明倫館に入学し、文化6年(1809年)まで9年にわたり儒学や国学を学ぶ。
明倫館には10代半ばに入学、学びの規定年数は3年というのが通例であるのに照らし、異例に長く学んだようだ。

◆山口講堂小史
9年の修学を経て、齢40を超え地元山口に帰っている。
山口に戻った当時、学び舎はどのような状況であったのか。
日本海に面した萩には藩校明倫館があり、他方、瀬戸内海に面した三田尻(防府)には船頭から医者に転じた名物の漢学者・河野養哲が開所した越氏塾(えっしじゅく)があったが、内陸の山口は本格的な学問所はなかったのだ。
大内家24代弘世(ひろよ)の時代が始まる前は一農村だった山口。京に上り、京の町に感銘を受けた弘世は、山口の地形が京都盆地に酷似していたことから、町の通りに大路、小路と京風な名前を付し、山口を「西の京」として造り変える。
15世紀後半には京都を舞台にした応仁の乱もあり、乱を逃れた公家や文化人が西の京に身を寄せ、また大陸からの先進文明を取り入れたことから山口は文教の中心地となっていったが、36代大内義隆が家臣の謀反により大内家が滅びると山口も衰退し、意欲ある若者を惹きつける学び舎はなく、学問する上での「空白地」になっていた。
このため鳳陽翁は郷里山口で学問所創設に注力し、藩からの資金下給に加え近隣の豪商や富農の力添えを得て、文化12年(1815年)、中河原に私塾「山口講堂」を建て、山口に住む藩士の教育に当たったという。鳳陽翁47歳の時であった。

この「山口講堂」が山口大学の「淵源」であり、山口教育の礎となった。
山口大学8学部中、最も古い歴史を持つ経済学部の前身である山口高商の校歌に「仰ぐは鳳翩、臨むは椹野 基を文化の遠きにおきて 時世の進みに伴ひ来る」の「文化」とは講堂の開設された年(文化12年=1815年)の元号である。
文化12年といえば、どのような年であったのか。
杉田玄白が解体新書を著し、伊能忠敬が日本の測量を続けていた時に当たる。
外国に目を向けると前年の1814年に英国人スチーブンソンが蒸気機関車を制作し、産業革命の中で新たな技術が生み出されていた時に当たる。
この山口講堂は、萩から藩主が参勤交代の途中に立ち寄る先とされ、藩主はそこでの武道の稽古や勉学の様子を観閲したという。

明倫館の弟分、山口講習堂
当時は天変地異もあり、財政は逼迫、一揆も多発しており、藩の人材育成が急務であった。
1845年に鳳陽は藩の賛同を得て山口講堂を文武の総合学舎とする山口講習堂と改称し、萩の明倫館の支校的存在になっていく。
万延元年(1860年)には三田尻(防府)の越氏塾とともに、山口講習堂も明倫館の直轄となり、「山口明倫館」と改称された。このため諸役は明倫館から派遣されることになり、こうして私塾から「藩の学び舎」になったのであり、この翌年、1861年に長山(亀山)に移転している。

山口講習堂の存在感が決定的に増したのは、文久3年(1863年)を契機とする。この年に馬関戦争、すなわち関門海峡を封鎖し外国船砲撃による攘夷が決行され、それを指揮するため藩庁が萩から山口へ移転したのであり、翌年には城も移転する。これにより、政治と軍事の機能は山口へ、また文教も山口へと移転する。その後、明治3年(1870年)に維新政府の教育改革で山口明倫館は山口中学となるに至る。

鳳陽翁の人となり
学問を好み、博識であったという。山口講堂の開所にこぎつけた後、講堂の運営を門人に任せ、国学研究のため萩の明倫館で学び直している。
好奇心は旺盛、食欲も旺盛、健脚で髪は晩年まで黒々としていたようだ。また、老いてもなお読書の折には、眼鏡の助けは要らなかったという。
情緒豊かな先生であったようで、友人が訪ねてきた折には御馳走でもてなし、友人が去る時には、後姿が見えなくなるまで見送るのを常とした。
喜怒哀楽豊かに本を読んだようで、読んでは涙を流し、苦しきと思しき者には大声で励まし、悪人と思しき者を叱り飛ばしたため、何事が起きたかと度々近所の住人が駆け付けたという。
鳳陽翁は嘉永6年(1853年)、ペリー来航の年に85歳で没する。
墓は大内家の菩提寺のひとつである乗福寺にあり、毎年命日の12月8日には「鳳陽忌」が執り行われており、山大の学長や理事、鳳陽の有志代表諸氏が集い供養を行っている。
(学23期kz)
参考文献:山口大学「山口大学の来た道」