◆日本のマックス・ウェーバー
石門心学の祖である石田梅岩。江戸時代、京都の農家の次男に生まれた。商家への丁稚奉公の中で独自に勉学を重ね、45歳で講席を開いた遅咲きだ。
勤勉、貯蓄を唱え、正面から商人道の是を説いた石田梅岩。後に「石門心学」として多くの者の心を捉えた。
石門心学は防・長二州の私塾でも大いに流行ったとされ、長州藩は天保6年(1835年)から藩校の教目に石門心学を取り入れている。
天保の世は一揆が多発していた。長州藩でも天保2年に「長州天保大一揆」が起きており、民衆の教化に心学を用いたのだ。
後世に与えた影響の度合いという点で、石門心学は広瀬淡窓の大分・咸宜園(かんぎえん)や緒方洪庵の大阪・適塾を凌ぐとの評価もある。
石田梅岩が生まれたのは1685年。梅岩と同様に、勤勉と倹約・貯蓄に近代資本主義の成り立ちを見たのがM・ウェーバー。ウェーバーは1864年生まれであり、梅岩は彼より200年も前に生まれている。
◆勤勉と貯蓄
梅岩が講席を開いた時は、元禄バブル後、世の中が乱れ、飢饉や百姓一揆が起きていた時であった。徳川吉宗の下、柳沢吉保による享保の改革で倹約令が出される中、勤労と節約が身を救い、世の中を救うとする道徳哲学は民衆の心にも浸透しやすかったのだろう。
「人、三刻働きて三石の米を得る。われ四刻働きて三石と一升の米を得る」、また「諸行即修行」として勤勉を説いた。
また健康悪化で雑炊「二食」となったことを契機に二食を続け、「残った一食が乞食一人を養う、これ実(まこと)の倹約」とし、木一本、菜一葉でも粗末にせざれば民の辛労を助く、と倹約を心掛けた。
◆「賤商論」の否定
もう一つの柱が商行為の是を説いたことだ。当時は儒学が一般的な教学であり、中でも家康以降朱子学が基本の教えとなる。この中では「士農工商」いう固い身分的な階層制度が社会に介在していた。
しかし梅岩の思想は、「人の性(さが)は天から受けし「小天地」であり、身分の違いなく四民平等」であること、また商人の利益は「天理であり武士の俸禄と同等」であるとし、商行為を劣等視する「賤商論」を否定した。
当時からすると驚くべき革新的な主張であったろうし、商人・町人は拍手喝采したに違いない。
こうした思想は幕府側の治世の通念と異なるが、幕府はこうした思想を抑圧しなかったのか。
抑圧するどころか、なんと幕臣も石門心学の門下に入り、心学を学んでいるのだ。
梅岩の話は肩が凝らない。講席への参加には銭を求めず、儒教をベースとしながらも、仏教や神道のほか市井の俗書も「心の磨ぎ種(とぎぐさ)」として活用している。取り上げる題材も、家の後継ぎ問題、嫁姑の問題など身近なもので、書物はあくまでも参考書であり、各人それぞれ自分の頭で考え、自分なりの解を得ることであることを重視したという。
このため石門心学は商人の道、町人の道というだけではなく、「人の道」を説くものとして武士階級にも賛同者が広がっていった。
◆心学の広がりと「三方よし」
梅岩は自らの思想を広める弟子にも恵まれた。手島堵庵(とあん)は石田梅岩の最も良き祖述者となり、石門心学の普及に大きく貢献した。
また堵庵の弟子・中沢道二(どうに)は道話者として優れ、石門心学の普及に努めており、寛政の改革を行った松平定信の側近も中沢道二の門下に入ったという。
石田梅岩には「実(まこと)の商人は先(方)も立つ、我も立つことを思うなり」との教えも残っており、これが近江商人の「三方よし」につながっていったともされる。
◆山口高商・竹中靖一教授
石田梅岩の研究では山口高商教授に竹中靖一(やすかず)先生がおられた。竹中先生は「石門心学の経済的思想」で学士院賞を受賞されている。
竹中先生は大阪生まれで京大・経済を卒業。在学中に恩師から石田梅岩の経済思想を学び、心惹かれたという。昭和7年(1932年)に山口高商に講師として赴任、昭和9年(1934年)に教授に就任。この間山口高商の沿革史編纂主任を務め、その間経済思想史への関心を強めたという。
先に挙げた先生の著書は石門心学について多角的な視点から記述した800頁の大著である。
(学23期kz)
追記
私の学生当時、M.ウェーバーの講義を受けた。先生の名前は「中村貞二」先生。
Web検索してみるとヒットした。
兵庫・神戸市生まれ。
1953年(昭和28年)に山口大学経済学部卒。
1958年に一橋大学・大学院社会学研究科博士修了。
山口大学助教授から東京経済大学教授へ。2002年同大学を退官。同大学名誉教授、とある。
講義を受けたのは、中村先生が山大経済の助教授時代だったのだ。
中村先生に石田梅岩の評価を伺ってみたかった。