昨年(2021年)2月、私は人間ドックを受け、腹部大動脈瘤が見つかった。破裂すると、命の危険がある恐ろしい病気だ。私は大学病院に入院した。
◇大手術の日
7月13日、大動脈瘤手術の日。体調は良好だ。精神面も落ち着いている。大丈夫。なんの不安もない。手術着に着替える。
午前8時30分、手術室に入った。まず、全身麻酔だ。意識が遠のいていく。こうして手術が始まったようだが、まったく記憶がない。
《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》
医師の声が聞こえる。だが、体は動かない。目も開けられない。
「聞こえますか」
「はい、聞こえます。寒い」
「手術 終わりましたよ」
「はい。眠たい」
手術は5時間に及んだという。
◇集中治療室
夕方、集中治療室に入った。集中治療室は完全看護だ。看護師が献身的に世話をしてくれる。ありがたい。水は飲むことはできないが、氷を口に含むことはできるという。これがおいしかった。
翌朝、集中治療室に外科医らが来てくれた。年配の外科医が微笑みながら話す。
「手術は無事、終わりました。(大動脈瘤は)相当、大きかったですよ」
術後も順調で、午後には一般病棟に移るという。
◇リハビリの日々
午後2時、車椅子で一般病棟に移る。窓から森が見える。室内に洗面所がある。快適な部屋だ。
だが、点滴と酸素マスクを付けている。体を自由に動かすことができない。
下剤と利尿剤を服用しているせいか、夜中も1~2時間ごとにトイレへ。そのたびに看護師を呼ぶ。つらかった。
翌日、外科医らが病室へ。年配の外科医がにこやかに話す。
「リハビリしましょう。歩くのが一番です」
リハビリの一環として病棟内を歩くことにした。1日に何度も。
また、肺の機能を高める訓練も行う。息を吸って容器に収められた3個の軽いボールを浮かせる。次に息を吐いてボールを浮かせる。1セット30回。これを朝、午後、夕方と1日3セットやる。けっこう、きつい。
この日は看護師が温かいタオルで体をふいてくれた。気持ちいい。
看護師たちは若く、気立てがいい。患者に寄り添ってくれる。ありがたい。
手術後、食事はなし。点滴で栄養をとる。空腹感はない。
コロナ禍で家族の面会は禁止されているが、妻が洗濯物を届けてくれた。
感謝・・・。
7月16日。かなり回復してきた。これまでは自分の体のことで精いっぱいだったが、社会的関心が蘇った。病床で新聞を読む。
家族や友人にメールを送る。続々と返信メールが届く。確かにつながっていると実感する。
7月17日。青年医師が私の体内に挿入していた管を抜く。点滴も解除された。
一気に体が自由になる。シャワーも解禁となった。ひとりでシャワー室に入る。転倒しないよう、注意する。てのひらで腹部の切開部をそっと洗う。胃袋のあたりからへその下まで相当、切っている。
食事は三分粥(かゆ)とバナナ。
7月21日、外科医らが病床を訪れた。検査の結果、24日にも退院できそうな運びとなった。ようやくゴールが見えてきた。
7月23日、青年医師が診察。
「傷口はきれいです。予定通り24日に退院できるでしょう」
この夜は東京五輪開幕式だった。午後9時、消灯だが、午後11時すぎまでテレビ中継を見る。
◇幸せな結末
7月24日、退院の日。三女が車で迎えに来た。退院受付で会計をすませ、車に乗り込む。マンションに到着した。妻が笑顔で迎えてくれた。
休憩後、三女が「お父さん、墓参りに行こうか」という。
車で地元の墓地公園に行く。亡き父に退院を報告する。
「見守ってくれたおかげで、無事、退院できました」
妻が食事を用意してくれた。私の好物のそうめん。夏はこれだ。
地元在住の長女と孫娘2人が退院祝いに駆け付けた。長女は私が所望していたカツサンド(入院中に夢を見た)を買ってきてくれた。
家族そろっての食事が和やかな祝宴となった。
こうして半年に及んだ闘病物語は幸せな結末を迎えた。
(鳳陽会東京支部 S)