県都と江戸東京

私は、町には物語があると思います。

大学に入学して、山口は小さな田舎町に見えました。しかし歴史を紐解くと、中世、14世紀半ば大内氏が京都を模して建設し、堅小路周辺には大内氏の遺構が残っています。関ヶ原に負けた中国の雄・毛利藩は防長二州に縮小され、藩都は山陰の萩に移されました。

山口には萩藩主参勤交代の定宿や毛利家の菩提寺があります。年縞を重ねても途絶えることはなく、寂れていない。幕末に藩庁が萩から山口に移されました。政治の動乱の中、周防と長門の地理的中心の立地が重視されたのです。明治になっても廃藩置県で県庁が置かれました。典型的な政治都市で、徳山・防府や下関の経済都市と分離するという少数派の施策で生き残りました。
 比較する江戸東京は、巨大都市であり、政治経済国際都市でした。都市の基盤は河川と鉄道のインフラにあると思います。鉄道の話をすると長くなるので、河川についての想い出を語ります。

私は、大学を卒業後、総合電機メーカーに就職しました。配属先が、神田川河岸の神田須田町にある本社分室の電子半導体営業部門でした。初めて営業を担当した顧客先は三多摩地区の複数の通信工業メーカーで、当時は定期的に通うのが営業スタイルでした。

このうち二社は玉川上水沿線にありました。神田川(玉川上水)を開削したのは徳川家康の指示であること、都市づくり・江戸の町づくりの歴史的意義と行政の重要さを知りました。エジプトはナイルの賜物と言いますが江戸東京は多摩川、荒川、江戸川の賜物です。

私は雲取山登山の下山時、多摩川源流に行きました。利根川は江戸川と分岐していますが江戸時代に開削して銚子迄河口を作ったこと知りました。東関東支社在勤時、茨城県取手から犬吠埼迄ドライブしたことがありました。

また余談ですが、当方が伴侶を迎えたのがその玉川上水中流の小平市のアパートでした。家康の治水がなければ今の東京はないと思います。昨年の大河ドラマ「青天を衝け」で家康公は再評価されたと思います。
山口大学経済学部29期 K・Y