大内から毛利へ その3

毛利元就の勝因

厳島の戦いに勝った勢いで、毛利元就は出雲・尼子氏との戦いにも勝利し、中国地方の覇者となる。

毛利元就の勝因

戦(いくさ)に勝った毛利元就側の勝因を探れば、あらん限りの謀略と攪乱戦、地縁と血縁とを活用した戦略に相当長けていたという言い方もできる。厳島への誘いの囮として築城した宮尾城、村上水軍の自陣への引入れ、陶軍の家臣団のいさかい・ほころびへの謀略の仕掛け・・・

また、身内の結束も勝因に挙げられるかもしれない。

兄弟が一致協力して家を存続・繁栄させるべしとして長男隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の三子に宛てた手紙が有名な「三矢の訓(みつやのおしえ)」。

この話は後世の作り話とされるが、長男は早世したものの、次男・元春は吉川家へ、三男・隆景は小早川家へ養子に出し、果ては両者が両家の長となって「毛利両川体制」を構築し、毛利家を支えた。

こうした親と子の結束、さらには養子縁組による血縁が有効に機能したことも、毛利の「勝ち」を手繰り寄せる大きな要因になった。

大内義隆、陶晴賢、毛利元就。

この三者の中で最も知略・謀略に長け、強運であったのが毛利元就であったのは間違いない。

毛利元就が陶氏を討ったのは、かつて仕えた主君大内義隆を討った陶晴賢の成敗を名目とした。この筋書きの線上にある戦いであったからこそ戦いに義があり、反発や非難を招くことはなかったのだろう。

元就は74歳で病死するが、畳の上で死ぬことができた。

大内義隆や陶晴賢の辞世の句に比べて、毛利元就の句は何とのどかで「嫋やか」であることか。

友を得て、なおぞ嬉しき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は

そこには知略に長じた戦国の猛将のかけらも伺い知ることはできない。

友と観る桜。同じ桜でありながら、昨日愛でた桜と今日の桜の、色と香りがかすかに異なることを感じ取る繊細さ。

長生きをし、戦国武将とは思われない優美な句を残して畳の上で死ぬことのできた者。

当時の中国地方の覇権を握った三者の中で最も恵まれた人生だった毛利元就。

最も謀略に長けており、強運の持ち主でもあったからこその晩年であった。

◆強運の源泉

この強運。

これをもたらしたものは何であったか。

下克上の世にあって、己に対しても敵方から知略や謀略が仕掛けられた筈だ。人も情報も素直に信じていれば足元をすくわれかねない。

昨今と異なり、情報の伝達も遅く、また情報は網羅的でもない。この時代、信頼のおける腹心でさえ敵方に寝返っていたことも、よく聞く話だ。

潰さなければ潰される一寸先が闇の戦国時代。

自分を信じ、血筋を信じることはいい。

しかしこれだけでは、強運の中で戦国時代を生き抜けない。

渦巻く疑念や迷いに押し潰されることなく、それらに耐え、それらを振り払うことのできた腹、「愚鈍」と紙一重の野太い精神的な強さ、逞しさ。これが先ずもって必要だ。

その上で、少しばかりの幸運を大きく膨らませ、周囲のみんなと共に分かち、地雷の如く身の回りに散らばる逆境さえも己の幸運として軽妙に引き入れる柔軟な頭と、そして自分の方に運を引き寄せ、引き込む剛腕があったからこその強運ではなかったか。

(学23期kz)