山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2023年1月トピックス】
◆私塾
全国的から秀才が集まったのが緒方洪庵の適塾(大阪)、や広瀬淡窓の咸宜園であった。
全国の私塾が1140校あった時、防長2国で全国の1割をはるかに超える160校あったとされる。
科目は和漢書、筆道、算術などであった。
このうち山口で有名なのが松下村塾、越氏塾、時習館(僧月照)などがあった。
長州藩の寺子屋の数は日本一であったという。
また、石田梅岩の心学塾(石門心学)も防長2国で広く浸透し、特に商人の職業倫理が織り込まれていく。
◆松下村塾
もともと叔父の玉木文之進が開いた八畳一間の私塾であったが、明倫館の塾頭吉田松陰が塾を継いだ。
誰でも入れる。また、月謝も取らなかった。
高杉晋作や久坂玄瑞のような士分のほか、山縣有朋や伊藤博文、品川弥次郎のような足軽、中間(武士に仕える身分)、商人や農民、町の不良も居たという。松陰の肖像画を描いたのは塾生で魚屋の子松浦亀太郎だ。
松陰が教えたのはわずか数年であったにもかかわらず、明治期に活躍した逸材を多く輩出したのは奇跡に近い。
松下村塾については別稿で記す。
◆越氏塾
河野養哲(かわのようてつ)が三田尻(防府)に作った私塾だ。
毛利藩校明倫館より30年も前に創設され、防長二州で最初の私塾となった。
養哲は父の同僚の養子になり水軍の船頭となるが、その職が性に合わず学問を志し、子弟の教育者になる道を選び養家から去る。
浪人になった養哲は生計を立てるため医者になるが、この時のエピソードが面白い。
医者時代、貧しい家に往診に行った折は一門の謝礼を取ろうとはせず、また驕り高ぶる富める家には往診を頼まれても行かなかったという。
勉学を積み25歳の時に、舟漕ぎ時代の仲間矢農民の子弟を集め、自宅に儒学の私塾を開いた。
養哲59歳の時、萩の明倫館が設立され、儒者として史観をすすめられたが辞退している。その代わり、若手の塾生を入学させ、その中から後の明倫館学頭が出ている。
8年後の享保12年(1759年)、死ぬ間際、遺言で塾生に対し「我が家をお上(藩)に寄付し、お前たちの学問修学の場とせよ」と言い残し67歳の生涯を閉じる。
妻を娶ることもなく、医者としての稼ぎもすべて、子弟の教育に注ぎ込んだ。
私塾は遺言で藩に献上され、藩校明倫館の付属校となり、後に三田尻講習堂と改称された。
吉田松陰の兄妹で、次女・寿と結婚し、四女・文と再婚した群馬県令の楫取素彦も明倫館の教職時代、時間を取って越氏塾で教鞭をとっている。大河ドラマ「花燃ゆ」では大沢たかおが好演していた。
(学23期kz)
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