回顧・馬関戦争③歴史を変えた第一砲

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

馬関戦争とは①1863年の長州の外国船砲撃及び②1864年の四か国連合艦隊の下関報復砲撃の二つの戦争を指すとするものもあり、また後半(②)の報復砲撃のみを指すとするものもあったが、近年の歴史教科書では、馬関戦争を前半と後半に分け、「下関事件」、「四国艦隊下関砲撃事件」と記述している。

以下これに倣う。

◆外国船砲撃(下関事件)

攘夷決行は孝明天皇の意を汲み、幕府の布告に沿った外国船砲撃であった。

攘夷期限は文久3年(1863年)510日に定められ、最初の砲弾は馬関海峡を通る米国の商船に対して放たれた。二週間後に仏艦船を、その3日後には蘭艦船をと次々に砲撃を加えている。

いずれも馬関(下関)海峡を通る外国船に向けた無通告砲撃だ。特にオランダは幕府から、商館を構えることを許され、交流の実績を積んでいた国であったにも関わらず、長州の砲撃を受けたことに驚きが走ったという。

長州の砲撃に対し、翌月米国は軍艦ワイオミング号で長州の艦船2隻を撃沈したほか、もう1隻に再起不能の損傷を与えている。

また仏国も長州に報復攻撃し、陸戦兵70人、水兵180人が下関・前田村に上陸し、民家33戸を焼いた。

しかし、長州は砲台を修復し、小倉側も一部占領して新たな砲台を築き海峡封鎖を続けた。

◆四国艦隊の報復砲撃

翌年のことだ。

攘夷の姿勢を崩さず、挑戦的な姿勢を続ける長州に手を焼く。

この間馬関海峡を通る物流も滞ることになり、欧州本国では経済問題化したという。

このため挑戦的な姿勢を崩さない長州に報復を決意する。

元治元年(1864年)85日から7日にかけて、四か国の連合艦隊は長州に報復攻撃をおこなった。

四か国連合の先頭に立ったのが英国であった。英国は前年の下関事件では長州側から砲撃されてはいないが、海峡封鎖により貿易が出来ず、多大な経済的損失を受けていた。また、当時英国といえば七つの海を支配する強大な覇権国であり、米・仏・蘭も英国の呼びかけに応じ、報復攻撃に参加することになる。

この結果、馬関すなわち下関と彦島の砲台を徹底的に破壊し、占拠した。

この時、住人はねじり鉢巻きの奇兵隊やいつもは威張っている武士が逃げ惑う姿を冷ややかに見ていたという記録が残っている。

この時、奇兵隊の高杉晋作はどうしていたか。

すなわち、高杉は戦いが始まっても参加せず、「無謀な戦い」として、止戦もしていない。伊藤・井上(馨)と共に経過を見守っていた。

止戦するより、戦わせて外国の威力を肌で感じさせた方が良いとの判断からだったという。

戦いは結果が見えており、高杉は講和要員として待機していたという。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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