回顧・馬関戦争④幕府の動き

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2023年4月トピックス】

四国連合艦隊が長州を報復攻撃(元治元年=1864年)することになり、幕府は慌てた。

もっとも幕府内では第一次長州征伐の命が下った後であり、伊能忠敬が作成した地図を連合国に渡し、長州攻撃に手を貸すべしとの話も出たという。

しかし、結局自国内のことであり自らの手で長州を懲罰するとの意向を示した。文久38月の薩英戦争の顛末のように、戦争後の講和で薩・英が直接の関係を持つことを嫌がったのだ。

しかし、結果的には幕府が懸念していた事態が現実となる。

◆馬関戦争の結果

歴史はどう動いたのか。

外国の艦船、商船への無通告砲撃(下関事件)は当初「藩難を招く愚挙」とされた。確かにそうであったが、馬関戦争によって長州は格が違う外国相手の攘夷の空しさを痛感し、一転して戦の勝負のカギを握る軍備の近代化に走る。

歴史の回転は想像以上に早く、一本道であった。

英国と結び、また英グラバーを通じた武器の調達により、長州は瞬く間に国内で一、二を争う軍事強国(藩)に躍り出て、薩摩と組み旧体制を壊し、新政府を樹立、世界の列強と肩を並べた。

◆関門海峡・壇ノ浦

関門海峡にある長門国赤間関壇ノ浦(現下関市)。

ここでの源平合戦で平家から源氏へ覇権が移る。

鎌倉時代から始まった武家の世は700年続くが、長州の外国船砲撃第一砲を端緒として歴史が急速に回転し始める。

長州藩による外国船を砲撃した第一砲が18635月。それからわずか5年で大政奉還、王政復古を経て、元号は明治に変わり、武家政権が幕を閉じる。

「無謀な攘夷」であったはずの馬関戦争であったが、外国軍の近代装備の前に無力を痛感した長州が近代的な武器の調達に走り、同じ外様であった薩摩藩と共に700年続いた武家政権を終わらせ、国民国家を誕生させる契機となった。

宋との貿易で平家の繁栄をもたらした馬関海峡。

馬関を死守しようとして壇ノ浦に拠点を構えた平家との戦いに勝ち、源氏の繁栄はここから始まる。

また馬関海峡の重要性を認識していた外国列強との戦いの場になった馬関海峡。

馬関海峡はいにしえから経済上、また地政学上の要衝であったのだ。

(学23期kz)

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

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