横浜市北部における廃仏毀釈のエピソード(その2)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

以前、当欄において横浜市都筑区における廃仏毀釈のエピソードをご紹介しましたが、同青葉区にも興味深い話が残っていますのでご紹介します。本件からは明治初期における廃仏毀釈がどのような性質を持っていたのかその一端に触れることができるような気がします。

江戸時代中期から庶民の間に大山詣でが盛んになりましたが、東急田園都市線藤が丘駅に程近い柿木台(旧上谷本村)の旧大山街道沿いに医薬神社と言う小さな神社があります。明治の前まではそこに東光寺(関東の高野山と呼ばれた川崎王禅寺の末寺)が広い寺域を持って所在していました。

 その寺の住持諦恵は11歳で仏門に入り成田山新勝寺(真言宗)で修行した後、東光寺に住持として赴任していましたが明治初年大政の維新に会い、何とその年に自ら率先して東光寺を廃して、寺内の境内宮に過ぎなかった医薬神社の神職に転身して檀家もみな神葬に変えてしまいました。

 明治政府の廃仏毀釈政策は寺院や有力檀家の抵抗が大きく、寺領を大幅に返上するなどの妥協により生き残った寺院も多い中で同寺を明治初年にたちまちに廃した理由は諦恵の出自によります。

 諦恵は徳川慶喜の父である水戸の烈公徳川斉昭の実子でした。母が婢として水戸藩に出ている時斉昭に見初められお手がつきましたが身分が低い出のため子として認知されないままに宿下がりとなり、下総の実家(宮本氏)で諦恵をひっそりと出産しました。その後諦恵は水戸藩の家臣の差配により新勝寺に入り、おそらくは真言宗の横のつながりによって東光寺に赴任したものと推測されます。

 その諦恵が明治初年に突然仏門を捨てて神職に転身したことは、推測の域を出ませんが水戸神道の影響が強くあったのではないでしょうか。徳川斉昭の庶子である諦恵は村名を姓とし、境内に湧出する清水に因んで名を谷本泉に改めました。時は明治政府が天皇を神格化して太平洋戦争の終結まで国家神道を推し進めていく中で谷本氏は時流に見事に乗っかったと言えるかも知れません。

 藤が丘駅近くのもえぎ野公園内に国威発揚目的で昭和15年(紀元2600年)に催した紀元節祝典の石碑が現在も残っていますが、地元の中里郷土史紙上には公園内に現存する池の元となった農業用水池を築造する村人達を指導する谷本泉の3代目か4代目の子孫の雄姿が写っています。

なお、郷土誌である「中里郷土史」発行の昭和44年においても、谷本泉の実父は明らかにされておらず、徳川慶喜の異母弟という出自が戦後20年を経た時点でも何らかのタブーに触れる可能性があったことが推察され、昭和史を考えていく上でも大変興味深いと思います。 (22期 YY)

One thought on “横浜市北部における廃仏毀釈のエピソード(その2)

  1. 横浜市青葉区の住持諦恵の東光寺から医薬神社神職への転身、水戸神道と絡めておられ興味深く読ませて頂きました。
    前段に出てくる大山には30代半ばに厚木の拠点立ち上げで横浜から半年間通った際に江戸時代の庶民の楽しみでもあった大山詣りを自力で2回しました。
    頂上の阿夫利神社付近で食べたソフトクリームが忘れられません。
    当時、丹沢には2回、富士山には1回登りました。

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