山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年8月トピックス】
横浜市鶴見区に県立三ツ池公園という緑豊かで広い公園があり、中の池の堤上に「千町田に引くともつきじ君が代の恵みもふかき三ツ池の水」という歌碑がひっそりと建っている。その裏面には天保十四年(1843)上末吉村」の銘がある。詠み人は藤原増貤とあるがネット検索しても名前にヒットすることはなく、10人中9人はその名を知らないと言っても過言ではない。本名は奥村増貤(ますのぶ)と言って文政の末(1830年)頃から武蔵国の25か村に所在する増上寺領の役人として領村の支配に務め、困窮者救済や用水設備の普及、勤勉な農業従事者の表彰などに携わって領民に大変慕われた人であり、件の歌碑は奥村の功績を称えるために領民がこぞって建立したものである。
奥村は一介の地方役人であったが、高野長英に師事し、伊能忠敬から測量を学び、渡辺崋山とも交友があった進歩的合理主義者であった。その優れた技術を見込まれて鳥居耀蔵・江川英龍ら幕僚による江戸湾巡視(1839年)の際には渡辺崋山から測量技術者として推挙されたものの、寺侍という身分を問題視した鳥居(南町奉行、蛮社の獄の仕掛け人)の意向により参加を許されなかった経緯がある。
私が住む横浜市北部の4か村(王禅寺、石川、川和、荏田)は家康が江戸に入国(1590)後ほどなく第2代将軍徳川秀忠の正室であるお江の化粧領地となったが、お江が死去した後は徳川家菩提寺である増上寺領となり、江戸時代を通じて奥村のような寺役人が管理の責を担った。
因みにお江が江戸城で死去した際は、先の4か村の村人3.5百人が剃髪し、白装束を着てお江のお棺を江戸城から青山火葬場まで運ぶ他、火葬儀礼の下働きを担っている。幕府はこれを大きな恩義として上述の村には大幅な年貢の減免特権をその後200年近く与えた。従い近世までこれらの村は他村に比べ大きな恩恵を享受した。奥村が主として勤仕した天保年間には川和村の名主であった信田太郎右エ門が同8年、15年の日記(幽篁日記)を残しており農民のくらしや寺役人との関係がよく分かる。
天保年間(1830~1844)は全国的な大飢饉が繰り返し発生し、農村も大きく疲弊したため、奥村は少しでも食い扶持を残したい村側と年貢の収量を高めたい増上寺との間の板挟みとなり苦慮した。
領民側に与する姿勢が大であった奥村は個人としても大きな借財をかかえていた為退役の意向を示したが、村役人たちは奥村の借財を肩代わりすることを申し出て400両を25か村に割り付けて奥村を支えたことが信田日記に記されている。
奥村は天保12年(1842)に江戸で病没したが、村役人たちは奥村の葬儀のために3日間江戸に滞在している。信田名主の詳細な日記が後世に残ったために、江戸後期における幕府の地方役人と農村との関係がかいまみえる一例である。
(22期YY)