山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年8月トピックス】
◆永池先輩の先輩の経歴
教えて頂いた。東芝内では有名人で、退職後に大学の先生になられた立派な方とのことだった。
歴史ウォークの道すがら、永池先輩と同じ東芝に在籍された複数名の方から、永池先輩の人となりについて簡単に教えて頂いた。
永池先輩は学15期。山大経済学部を卒業され、中央大学総合政策研究科博士課程を修了。
東芝に36年間勤務され、本社の経営企画、欧米や中国を中心とするアジアの戦略企画に携わり、ドイツの国立キール大世界経済研究所にも留学されている。東芝アメリカの副社長のほか、経営トップの特別補佐も務められ、いわば東芝の頭脳であったようだ。
平成15年に東芝を退職され、九大大学院経済学研究院教授として同大学院ビジネススクールで教鞭をとられている。
◆高等商業学校創設の背景
永池先輩の論考「旧制官立専門学校と山口高商」―その誇り高き歴史と意義―(平成20年3月)にも山口高商誕生の背景が記されている。
すなわち、明治政府は明治10年(1877年)、東京大を設立し、人材育成に資するため行政を中心に、司法・立法なども含め、国家の屋台骨となる人材の育成に向かう。本格的にこうした人材を全国的に多く輩出せんがために明治19年(1886年)には帝国大学令を出すが、紆余曲折を経て、ようやく京都帝大ができたのが明治30年(1897年)だ。
他方、日清戦争(明治27年)のあと、明治30年代には日露戦争(明治37年)があり、商工業の分野で目覚ましい発展の時機を迎える。
そうした時代にはそれまでの帝大によって排出される官僚のような人材だけでは間に合わない。産業の発展とともに、こうした分野に対応できる人材の需要が出てくるのは当然のことであった。すなわち工業や商業を担うビジネスの専門家集団だ。
そこで明治33年に東京高商が、明治35年には神戸高商が設立され、そして明治38年、全国3番目に山口高商が設立された。次いで長崎高商、そして明治43年の小樽高商設立と続く。
◆永池先輩の遺稿
先輩が残された論考の中には、当時の高等教育の中での高商の位置づけと山口高商の特色について以下のような記述がある。
●山口高商が設立された明治38年当初の頃、帝大卒は行政へ、高商卒は企業へと緩やかな棲み分けが出来ていた。すなわち高商などの専門学校は行政に向かう帝大と肩を並べる確率されたキャリアであった。
●企業は財閥企業を中心に近代化・大規模化し、明治末から大正の初めには高等教育機関の卒業生の就職先として、行政より民間企業の方が質的・量的にウェイトを増していき、帝大出身者も次第に新しいキャリアを求めて企業に就職し始める。
●しかし、帝大出身者が新たに身を投じ始めた企業とは財閥の中核企業である銀行であり、商・工業、新興企業といったリスクの大きい分野は専門学校出身者であった。
●企業が安定的に発展していき、一般企業の社会的な地位や評価が高まり、安定すると、やがて帝大出身者もそうした一般的な企業にも就職し始める。我が国の近代化はこうした過程の繰り返しであった。
従って産業の近代化の担い手は帝大出身者とは言えない。産業近代化の真の担い手は専門学校の出身者たちである。
●高商はそれぞれの地理的位置や歴史的な沿革から強烈な個性と得意分野を持ち、エリート意識やライバル意識が強かった。当時高商の学生は共通して帝大への強い対抗心を持っており、それが後の単科大学昇格運動にもなった。
●東京高商、神戸高商が広く世界全体を対象としたのに対し、山口高商はアジア、中でも北東アジアに強いという定評があった。語学は英・独・仏に加え中国語、朝鮮語、モンゴル語などアジアの言語が充実しており、他の高商に先駆けてタイプライターも導入した。
(同じアジアを目指した長崎大は東南アジアに重点を置いた)
●山口高商は中国・韓国・台湾との交流も盛んに行ない、これらの諸国から多くの留学生が応募してきた。また、山口高商の生徒は満・韓への修学旅行が好例となっていた。
またこうした流れで、東亜亜経済研究所が設立(昭和8年1933年)され、満・韓・蒙の研究では全国的にその名を知られた。
●戦後GHQの指導で新制大学ができたが平凡な総合大学(ミニ東大)となり、山大経済学部もその中に埋没したかにみえる。
●1990年代に入り我が国はグローバリゼーションの波の乗り遅れ、また大学も海外の大学に立ち遅れ、
最近では、ビジネススクールなど、戦前には山口高商が担っていた実学重視の経営大学院が切望されるようになった。現在、母校でも高度職業人コースが新設され成果を上げつつあることは心強い限りである。山口高商ー山口大学経済学部の伝統と強みを生かした実学教育のさらなる充実を期待する。
◆九大教授時代
既述したように、永池先輩は東芝退職後、九大大学院でビジネススクールの教授を務められた。ビジネススクールとは、実学重視の経営大学院だ。いわば九大という官立の商業専門学校で教鞭をとられたのだ。
九大教授時代の永池先生はゼミ生を連れて、萩の松下村塾を訪ねるのが恒例行事であったという。
◆東亜経済研究
支那、満韓蒙。永池先輩ご指摘のとおり、山口高商が専門性を有し、得意とした地域。
先の大戦を挟んで政治体制が変わり、ヒトやモノの交流が抑制され、我が国とは微妙な関係が続いているようにみえる。
しかし、地政学的にお互いは重要な近隣国であることには変わりがない。
このためこれら諸国・地域との関係の重要性は、経済の側面にとどまらない。政治、文化、社会制度含めた幅広い分野での蓄積が重要であり、こうした資産を次の世代につないでいく必要がある。
しかし現在は、これら諸国と十分な交流が出来ているとは言えない。
逆説的に言えば、だからこそ、これまで蓄積してきた専門性、交流をしてきた人的つながりを活かして、調査・研究の蓄積を図ることが重要で、ここに東亜経済研究所の存在価値があると言えないか。
北東アジアの政治環境が変わったのはここ100年ほどの歴史しかない。
この先、30年、50年は社会、経済、そして政治までもが加速度的に流動化しないとも限らない。
山大・東亜経済研究所がこれら諸国・地域の学術研究、資料収集のメッカとなり、人材交流においても我が国の拠点となることを願っている。
永池先輩もそう願っておられるように思う。
永池先輩のご冥福をお祈りしたい。
(学23期kz)