山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年8月トピックス】
松陰は長州藩士杉百合之介の次男に生まれる。幼名は寅次郎。寅年生まれであった。
5歳にして長州藩山鹿流兵学師範の叔父(父の弟、杉家次男)吉田大助の家に養子に入り、吉田家を嗣ぐ。
「吉田家を嗣いだ」ということは明倫館に出仕して山鹿流軍学を講ずる定めとなったのであり、軍学を講じたのは松陰の意志ではない。
その養父が早世したため、「吉田家の学問」山鹿流兵法を叔父(父の弟、杉家三男)の玉木文之進が教育を施す。
玉木は四書五経を始め山鹿素行の平易なものの詰め込み教育を四六時中、スパルタ式に行ったようだ。
松陰がなまじ「できる子」であったため、文之進のスパルタ詰め込み教育に拍車がかかったという。
NHKの大河ドラマで文之進の役を奥田瑛二が「しかめ面」で演じていたが、はまり役だったように思う。
◆11歳で御進講
11歳の時に、当時二十歳(はたち)であった藩主毛利敬親の御前で素行の武教全書・戦法論を講じた。講義の巧みさ、そして藩主の問いにもよどみなく答えたため、厚いお褒めの言葉を賜ったという。
毛利敬親は何よりも有能な人材を愛する藩主であり、松陰が野山獄に押し込められていた時も、時々食事の箸を止め「寅次郎は何をしちょるのかのう」と独り言をつぶやいたという。
◆松下村塾での松陰
松陰は月謝をとらなかった。
「師道の緩みの原因は弟子から報酬をとることにあり」とする。
萩にあって青年知識人が私塾を開き、月謝はなし、和漢に渡る文学(イソップ物語)、私学の素養、青森から九州まで全国行脚で知識人を通じて知り得た情報、また実体験に基づいた体験談や内外の情報まで講じ、塾生にとっては博覧強記の人物と映ったようだ。
「つまらない」明倫館の講義にあきたらなかった高杉晋作。祖父や父から止められていた村塾へ入門する。自らの実体験を織り込んだ講義に触れ「学問が生きている」と感じたという。
また、松陰は自分のことを「僕」と呼び、塾生に対しては、たとえ少年であっても「あなた」と呼びかけ、塾生を「諸友」と呼んだ。
師としての松陰も塾生とほぼ同様の歳。若かったからだ。
また、入門希望者に対して「自分は師たりえない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に勉強しよう」と言っている。入塾者に最初に与える言葉が「しっかり勉強なされませい」だ。
塾生に対しては年齢、身分の差を取り外し、すべて平等に扱ったという。
◆ひととなり
本来は茶目っ気があり、活動的で、ユーモアを愛する者であった。
酒・タバコはやらず、囲碁は打たず将棋も指さず、極めて禁欲的であり、独身であった。
人を引き付ける不思議な磁力を持っていたという。
言葉遊びが好きなようで自分のことを二十一回猛士と呼んでいることは有名だ。
吉田家に養子になる前の苗字は杉。杉の字の「偏(へん)」は十と八、それに「旁(つくり)」はハネ3本で合計二十一。
吉田は吉田の吉の「冠(かんむり)」が十一に「口」がひとつ、田は「口」の中に十があり、合わせて二十一に口二つで二十一回となる。
睡眠時間が短かったためか、講義中に居眠りし、机に伏して眠ったという話も残る。
◆松陰と経済
松陰が松下村塾で力を入れたのが地理と歴史、それに意外なことに算術であった。ことあるごとに「算術・経済」を口にし、塾生たちを叱咤激励したという。
品川弥二郎が語るには松陰は「士農工商の別なし。世間のこと、算盤珠をはずれたるものなし」と常に戒めたという。
当時15~6歳の弥二郎は「(松陰)先生の経済、経済というのは何のことかわからず、ただ経済とは金儲けのことだとのみ思われ、奇妙なことを言う先生だと思った」と松陰の想い出を正直に語っている。
松陰の愛読書の一つは太宰春台の産語であったという。四民が職分を尽くして富国殖産に努めるべきとした政治経済論書。産業や民生経済政策が論じられており、時代を超えた有用の書として注目されていた本だ。
◆アキレス腱—語学の才に欠けた松陰
勝海舟や佐久間象山、大村益次郎、福沢諭吉と異なり、語学の才能には恵まれなかったようで、蘭学の学習を放棄している。
このため、原書を読むことはできず、翻訳書にすがるほかなかったようだ。
アヘン戦争の全貌を伝える阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)。江戸末期の儒学者で浜松藩主水野忠邦に仕えた塩谷宕陰(しおのやとういん)が記した本を読むほかはなかったようだ。
松陰も人の子。アキレス腱はある。
(学23期kz)
読み応えのある投稿、ありがとうございます。
玉木文之進という名前をどかで聞いたことのある名前で調べてみました。
リアル友人でFacebook友人でもある和田 幸子さんという女性が、血縁的には杉民治の玄孫で、玉木文之進の玄孫にもなる人でした。
山口県の歴史や現在を諸々投稿されていて私は勉強になります。