ソリの合わない二人の英傑 木戸孝允と大久保利通

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月トピックス】

幕末の三傑とされる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。

松平春嶽公は三傑を次のように描写している。

「御一新の功労に智仁勇があった。智勇は大久保、智仁は木戸、勇は西郷である」と。

大久保と木戸。二人ともあの頭脳明晰で開明的で、時代の最先端を行った春嶽公は両者の人物評に「智」を付している。両者とも相当な知恵者だったのだろう。

◆正反対の木戸と大久保

明治政府の歴史は攻めの木戸と守りの大久保の綱の引き合いで織りなされた感もある。

大隈重信は両者について正反対の性格を有するとして次のように評している。

「木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。木戸は自動的の人なり。大久保は他動的の人なり。木戸は慧敏闊達の人なり。大久保は沈黙重厚の人なり。もし主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、大久保は保守主義を奉ずる者なり。是を以て当時木戸は旧物を破壊して百事を改革せんとする王政維新の論を取り、大久保は之に反して漸時大賽令の往時に復せんとする王政復古の説に傾けり。即ち当時の進歩的改革論者は、木戸に依りてその志を成さんとし、保守的復古論者は、共に大久保を擁してその業を遂げんとし、両々相下らざりし。

木戸と大久保とは、その性行、主義の相違なること此の如きに拘わらず、相依り、相持ち、以て互いにその及ばざる所を補い、独力の能く為すなき所を成し、却て中正を得たりし者亦少なしとせず、然れども諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、その衝突はおのずから二人の代表せる薩長の軋轢となり、その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し・・・」としている。

木戸孝允は明治の三傑の中では個性に欠けるような感がある。しかし、これは名家の生まれ故のもので、美男の風貌、温和な性格、文化・学問の素養、カネに不自由しなかったからだとみていた。

若手を集め飲食の面倒も見ており、長州ファイブがロンドンに渡航する際もカネの工面など、若手の面倒を見ることに汗をかいている。

このように、木戸孝允はバランスの取れた温和な性格と思いきや、大隈が「慧敏闊達」で「旧物を破壊して百事を改革せんとする・・・進歩的改革論者」であると観ているとは意外であった。

確かに立場上倒幕に向けた長州藩のリーダーだったが、藩内の過激な攘夷論者のなだめ役、藩の兄貴分的な調整役という印象が強い。

しかし、人間は分からない。

おっとり型の木戸公と思いきや、江戸三大道場である斎藤弥九郎の練兵館で、入門わずか一年で間の塾頭となっている。

腕は立ったのだろう

また、旧きを断って、新しきを創るという。

こうした情熱はどこから来たのか。

木戸は藩校明倫館で山鹿流兵法を教える3歳年上の吉田松陰から教えを受けているのだ。

木戸が熱い進歩的改革論者と評されたのは明倫館で松陰のDNAを受け継いでいたからかもしれない。

(学23期kz)

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