ソリの合わない二人の英傑 伊藤博文と井上馨

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年10月トピックス】

仲が良い兄弟でも、相続の問題が起きると、兄弟関係にひびが入る。

これはカネの配分の問題だが、個人の名誉を巡っても仲の良い二人にヒビが入る。

長州藩の上級藩士で明倫館に学んだ変わり者の井上馨。

喜怒哀楽がはっきりしており、怒れば雷。気むずかしくて変わり者。

片や農民出身、庶民的で威張らず、朗らかで大らかな伊藤博文。しっかり者で松下村塾に学んだ。

身分も性格も正反対。

この二人は攘夷運動に身を投じ、英公館焼き払いに加わりそこで知り合った。また、文久3年(1863年)には長州ファイブとして渡英した仲だ。

英国滞在中に現地紙で馬関戦争を知り、戦争を回避させるべく急遽帰国したのも伊藤と井上の二人だった。

◆ヒビ

歴史の編纂では伊藤の名も出るし、井上の名も出る

しかし、客観的に書かれた長州藩―毛利家の歴史書の未定稿の記述で伊藤博文の活躍の方が高く評価さていることに対して、いたく名誉を傷付けられた。喜怒哀楽の激しい井上はこれに我慢が出来なかったようで、伊藤博文の名を「聞くもけがらわしい」(元毛利家記録課長三坂圭治氏談)というまでになったという。

28歳の時に俗論派から襲撃を受け50鉢を縫う大けがを受けたが、「母の力」もあり奇跡的に一命を取り留め、明治の元老として活躍した。

(学23期kz)

井上馨遭難の地碑(山口市中園町)

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