山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 12月トピックス】
◆美しい国日本、敬虔で危険な国・日本
1853年のペリー来航以降、1860年代に掛けて外国人殺害事件や公使館放火が起きている。
生麦事件が起きたのは1962年(文久2年)、その前年に英国公使オールコック一同が着任のため江戸へ向かう途中、霊峰富士山へ登山をしたが、その際水戸藩士が「神国を汚した」として英国公使館を襲い、公使館員を傷つける事件も発生している(東禅寺事件)。
当時の海外駐在員の記録を見ても、美しい島国・日本に魅せられるも、西洋人には馴染みのない敬虔なルールやしきたりがあり、それを犯せばいつ斬られるかも知れず、夜間の外出には気を付けていたとの記録が残る。
米国総領事館ハリスの秘書兼通訳ヘンリー・ヒュースケンも1861年1月に攘夷の刃に倒れた。
外国人が日本に住み始めた明治維新前夜には、確かに「不届きな」外国人もいた。蒸気船で上陸した水兵も、酒に酔って土地の人を殴ったり、家や店に入り、狼藉三昧をした者もいたという。
また外国人商人について「日本では商人の地位が低い。しかし西欧の服を着ていない日本人に優越意識を持ち、軽蔑・愚弄する。残念ながらその種の人間が非常に多かった」(ツー・オイケンブルク・プロイセン公使「日本遠征記」)とある。
しかし、攘夷の背景はこうした日本独自の思想信条や市民の一般的な感情だけではなかった。
◆外国船が持ち込んだコレラの流行
1822(文政5)年、1858(安政5)年、1862(文久2)年にいずれもコレラの感染地は長崎。流行った季節は7月から8月の夏場で、壮年層を襲った。特に安政5年から6年にかけて発生したコレラは江戸で3万人の死者を出している。
コレラはガンジス河流域のベンガル地方の風土病であったが、英国の植民地政策によって世界に広がったとされる。
安政5年のコレラの感染源は、かつて1853年のペリー来航に伴う4隻の中の一隻でもあったミシシッピ号。1858年に長崎に再び寄港し、そこから瞬く間に全国に蔓延している。当時は対処するすべも乏しく、隔離し、祈祷するほかなかったという。
◆外国との通商に伴う混乱
国内での金銀交換比率を米国の総領事、タウンゼント・ハリス(後に公使)との通商交渉で、ハリスに押し切られる形で設定された交換レート。すなわち、外国では金と銀の交換比率が1対15のところ、諸般の事情から1対5と設定することで決着した。するとどうなるか。外国人は海外から大量の洋銀を持ち込み、金に換えることで容易に3倍の稼ぎができる。かくして金の大流出が起きた。流出した金は10万両とも2000万両とも言われるが確かなことは分からない。こうした単なる通貨交換比率の設定だけで、外国商人は一夜にして大儲けしている。
これはこれで問題であるが、この後の対応も経済を混乱させたのだ。
すなわち幕府は金の品位を下げる改鋳に向かう。すなわち金の含有量を3分の1に引き下げることで金と銀の交換比率を外国並みとし、金貨の流出に歯止めをかけた。また、金貨の流出で金貨が不足していたことに対応するため、鋳貨量を増やしたのだ。これにより金貨の価値は暴落し、ハイパーインフレが生じたのだ。
こうしたハイパーインフレは特に貧困層に経済的な打撃をもたらした。1858年から1866年までに米価は11倍に跳ね上がり、賃金水準(実質)は1800年ころに比べ約半分になったという。いうまでもなく、一揆や打ちこわしが流行った。
このように、外国とのヒトやカネの行き来が増えたことに伴い、得体の知れない流行り病に侵され、先行き見えない経済混乱も攘夷をもたらした背景にあったといえる。
(学23期kz)