山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
2023年10月 トピックス
鳳陽会東京支部は令和3年6月、コロナ禍福で屋内での集会や行事が控えられる中、都内で長州にゆかりのあるスポットを巡る第1回長州歴史ウォークを開催した。
本年11月25日(土)には第4回長州歴史ウォークを開催し、品川方面を散策する。
◆ペリー来航
嘉永6年(1853年)6月3日にペリーが浦賀沖に来航した。続いて翌嘉永7年にはペリーが再来し日米和親条約が締結されることになる。
寛永14~15(1637~38)年の島原・天草の乱を経て、寛永16年(1639年)ポルトガルの入港を禁止した「第5次鎖国令」をもって「鎖国」とするならば、それ以来「鎖国」を続けていた日本が約200年ぶりに鎖国を解いた。
1840年にはアヘン戦争が起き、その顛末も知る幕府も鎖国を続ければ国が持たないという時代認識もあったのだろう。
幕府としては和親条約を結ぶ一方、諸外国の出方を警戒するという両構えの状態に入る中、江戸湾沿岸の防備を各藩に命じた。
◆品川・大森の大筒調練場
最初のペリー来航時、民衆はてんやわんやの騒ぎとなった。幕府も慌てた。
幕藩体制の下では、一大事が起こると幕府のみでは対処できず、各藩に支援を仰ぐことになる。
ペリーが最初に来航した時、長州藩も福井藩、熊本藩、姫路藩などと共に幕府から江戸湾警備が命じられ、品川近くに藩邸を抱える土佐藩などにも警備の要請が出された。
中でも長州藩に割り当てられたのは大森町打場(ちょううちば)の警備だった。町打場とは大砲や小銃の射撃調練場で、江戸湾が外国船の来航で物騒になってきたため、ペリー来航の3年前の嘉永3年に設置が決まり、来航の1年前に完工している。
調練場とはいうものの、いざという場合は実戦で攻撃の拠点にもなり、大筒が5門据えてあった。
幕府から警備の命が降りたのを受けて、長州藩では嘉永6年、ペリー来航から5日目にあたる6月8日に大森町打場に向かう。
この時には江戸に遊学し、剣の鍛錬に練兵館に通っていた桂小五郎(木戸孝允)も駆り出され、大森町打場に向かったようだ。
現在では小豆島から砂を持ってきた太田区立大森ふるさと浜辺(はまべ)公園近く、東京ガスのグラウンドになっているところだ。
◆長州藩士の滞陣
長州藩では大森の三原通りに付近に陣を構える。三原通りは品川宿と川崎宿の中間に位置する、いわゆる「間(あい)の宿(しゅく)」。このため東海道を通る旅人へ食あたり・暑気あたりに効く道中常備薬の和中散の店や日笠などの旅の常備品のほか、麦わら細工などの各種土産物屋のほか、大森付近は浅瀬で、江戸時代から海苔の養殖が行われ、将軍家にも納められた「御膳海苔」もあるなど海苔の産地として海苔問屋が集まっていたようだ。
そこへ500名ほどの長州藩士が警備のために滞陣することになった。このため町が賑やかになり、これがこの通りの繁栄のきっかけを作ったとされる。
昔は北原、中原、南原を総称して三原と呼ばれたが、明治になって美原通りと表記を変えている。昭和2年に旧東海道の道路を拡張して第一京浜が作られたが、当時繁栄していた美原通りを避けて工事が行われたため、旧東海道の幅員がほぼそのまま残っている。また通りも最近では通りには街灯、提灯が飾り付けられ、シャッターには広重風の浮世絵が描かれるなど、当時の東海道をうかがわせる工夫もなされている。
◆三浦半島の警備へと任地替え
11月には幕府による警備体制の見直しが行われ、大森一帯は彦根藩が担当することとなり、長州藩は三浦半島西岸一帯の警備を任されることとなった。桂小五郎もこの時、大森を離れている
三浦半島での警備の本陣は上宮田。
この上宮田で長州にいた伊藤利助(博文)は運命を大きく拓く契機となった重要人物と出会う。
つづく
(学23期kz)