ペリー来航と長州藩 その2 伊藤利助(博文)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ペリー来航に伴い、幕府から長州藩に相模国(神奈川)での沿岸警備の命が下った。

これを萩で聞きつけた若き伊藤利助は相州(相模)行きを志願する。士分ではないその身。長州に居るままでは士分の連中に劣後する人生を歩まざるを得ない。進路が閉ざされ、敗北的で悲観的宿命を何とか断ち切りたい。そういう思いで相州行きを願い出たのだろう。

相州行き、これが認められる。この時安政3年(1856年)。1841年生まれの利助が、数えで16歳の時だ。

◆文武両道の達人・来原良蔵との出会い

来原(「くるはら」とも、「くりはら」とも呼ばれる)は若くして学問を身に付け、洋学にも親しんだ。西洋兵学にも通じ、武道にも通じた豪傑だ。

来原の嫁は桂小五郎(木戸孝允)の妹・治子(はるこ)であり、桂は義理の兄にあたる。

また、来原は江戸での遊学中、1歳下の吉田松陰と江戸で出会い、意気投合。松陰が脱藩し肥後の宮部鼎蔵と東北遊歴に向かった折は藩から脱藩幇助として譴責処分を受けており、また松陰から海外密航の相談を受けるなど、気脈の通じた松陰の良き理解者であった。

若い伊藤は相州・三浦半島警備の本陣が置かれた上宮田でこの来原の部下に配属された。

◆来原の眼力

来原は伊藤に「ものになる」ものを見出したのだろう。

個人的に伊藤の指南にかかる。冬の朝4時から厳しい教育が始まった。熟睡している利助を叩き起こしての修業だ。

中国の古典の読み書きのほか「愚痴と弱音は武士の禁物」として武士の精神を伊藤に叩き込んだ。戸外修業では寒い冬場でも草履を履かせずに訓練した。戦地で草履がなくなった時を想定しての訓練だ。

この時受けた教育の様子は伊藤の日記で読むことができ「一生忘れることのできない良い教育を受けた」としている。

伊藤公は来原を高く評価していた。

ある時、高杉晋作から木戸と来原の人物評を聞かれた伊藤公は処世の術(すべ)は別として、学問、見識、人格、いずれも木戸よりも来原がはるかに上、と高く評価していたようだ。後々これを噂で伝え聞いた木戸はしばらく機嫌が悪かったという。

(学23期kz)

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