ペリー来航、その時龍馬は

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 12月トピックス】

◆その時の龍馬

坂本龍馬はどこに行っても人気がある。今年生誕100周年となる司馬遼太郎が坂本龍馬の知名度を引き上げた側面がある。しかし、何と言っても朝敵となった長州と、第一次長州征伐で政府軍の主力部隊となった薩摩を組ませて討幕という大転換をもたらし、維新の立役者のひとりとなったとされる龍馬。若くしてこの世を去ったことも人気が絶えない一因なのか。

龍馬は天保6年(1835年)11月15日に生を受けている。

吉田松陰や大久保一蔵(利通)と5歳年下、桂小五郎(木戸孝允)とは2歳年下になる。

ペリーが来航したのは嘉永6年6月3日。浦賀沖に現れ、米国大統領の国書を差し出し開国を迫る。

龍馬が江戸遊学のために土佐を発ったのが同じ年の3月。歳は数えで18の時だ。

江戸へのぼって3か月程度しか経っていない。

◆浜川砲台と龍馬

その間龍馬は剣の稽古で土佐藩の上屋敷(神田鍛治町)の長屋から目と鼻の先の千葉道場に通っていた。北辰一刀流の創始者・千葉周作の弟千葉定吉の道場だった。

ペリー来航の翌4日早朝には、早くも「異国船渡来」を告げる高札が千葉道場に向かう道筋に立った。

一大事になりかねないことを知らせる高札だ。この高札で江戸の町が狼狽し、各藩の江戸屋敷では臨戦態勢を強いられことになる。

安穏な日々に慣れた武士たちは剣や槍を揃え、あるいは質屋から買い戻し、兜や鎧などの防具も手当てすることを余儀なくされた。このため戦時の武具の値は高騰したという。

高騰したのは武具だけではない。

江戸湾内では船の行き来が止まり、荷舟が入らないために食料や一般物資も急騰した。

◆土佐藩の沿岸警備

土佐藩では海に近い品川・浜川に下屋敷を持っており、龍馬も品川の沿岸警備に駆り出されている。

また、ペリーが翌年に再来することを言い残して帰ったため、幕府としては全国各地お台場(砲台)構築を進め、その数は800か所とも1000か所ともされる。もちろん江戸でも海岸端にお台場が設けられた。

土佐藩では下屋敷近く、浜川河口に抱(かかえ)屋敷があり、その敷地内に浜川砲台が構築された。

ここには江戸詰めの土佐藩士らが動員された。龍馬にも「臨時御用」がかかり、ここで警備の任に当たった。

現在、砲台の跡地には、当時据えられた8門の大砲のうち、発砲時の仰角が大きく、弾道が大きな弧を描く特徴を持つホーイッスル砲が原寸大で復元展示されている。

また有名な龍馬のことだ。龍馬がこの地に訪れたことを記念した龍馬像が立ち、人を集めている。

龍馬は死してもなお、足跡を残した町の町興しに活躍している。

(学23期kz)

浜川砲台跡
齢二十の頃の龍馬
立会川龍馬通り

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