ペリー来航、その時幕府は その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部【2023年 12月トピックス】  

ペリーが来航した時の老中首座は阿部正弘。

阿部正弘の肖像画は学校の教科書でも見たことがある。よく知られており、ふくよかな体型で穏やかな風貌だ。

阿部公が度重なる外国船の来航やアヘン戦争などで対外的な脅威が深刻化する時代に幕政を取り仕切ることになる。

もともと酒好きで毎晩二升酒をしていたというのには恐れ入る。

四合瓶二本ではなく、一升瓶二本だ。

国難が近づいた時にはさらに酒の量がふえたという。

外国勢力は開国を迫り、外国事情に明るい開明派は開国に理解を示す。しかし、日本の権威の大深部である朝廷は開国に難色を示しており、幕府の舵取りは困難を極める。

国内が開国派と攘夷派に分かれる中、どちらに軍配を上げても紛糾し、お互いの身が危険に晒されるような状況下で、うまく泳いだようにみえる阿部正弘。

相当なストレスもあったであろう。このため阿部は老中在任のまま39歳で急逝する。

しかしその間、色々なところに後々に花開く種を蒔いている。制度の創設然り、人材の登用然り。いわゆる安政の改革だ。

登用された人材は明治になって外政・内政でリーダーシップを発揮することになる。

◆早い出世

阿部公は譜代・備後福山藩の7代藩主である。

江戸城で生まれ、国元に帰ったのは藩主になった翌年、数えの19の時、一度限りで、国元での滞在は数か月限り。とんぼ返りで再び江戸へ帰っていった。

とにかく早い出世であった

(カッコ内は前任の水野忠邦と後任の堀田正睦の場合)

19歳(21歳、19歳) 奏者番として出世コースに乗る。

21歳(23歳、24歳) 寺社奉行

25歳(40歳、31歳) 老中

27歳(45歳、45歳) 老中首座

かなり若くして老中になった。

◆断つべきは断つ

阿部はその穏やかな風貌とふくよかな体型には似つかず、思い切った裁断もした。

寺社奉行の時には大奥・僧侶の関係乱れ極まれる折に、名のある僧侶を処分している。

外国問題が紛糾した際、問題の扱いに慣れた水野忠邦が老中首座に復帰した折、水野の子飼いながら水野を陥れた蛮社の獄の主、悪名高き鳥居耀蔵を処分している。

またその翌年、阿部は老中首座の水野を天保の改革での不正を理由に老中首座から追い落とし、阿部自ら老中首座に就いている。

年若い時に。

なかなかできることではない。

剛腕の持ち主でもあった。

つづく

(学23期kz)

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