山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年7月 トピックス】
◆布教せず、貿易に専念したオランダ
1600年にリーフデ号事件が起きる。
リーフデ号とはオランダの商船で、豊後国臼杵に漂着したが、ここでイエズス会士はリーフデ号が海賊船である旨大老・徳川家康に進言する。
家康は乗組員を取り調べるが、ここに取り調べを受けたリーフデ号乗の組員が有名なオランダ人・ヤン・ヨーステンであり、イギリス人ウィリアム・アダムスであった。
彼らは彼らでポルトガルやスペインの覇権の切り崩しを狙っていた。
家康は彼らからよくよく話を聞き、欧州におけるカソリック国と新教国の対立などの話を理解し、欧州情勢を説く姿に好感を覚え、海賊船の嫌疑を晴らすに至る。
◆プロテスタントは貿易に宣教師を連れてこない。
貿易に、より力を入れ、キリスト教布教色が薄いことが幸いした。
1604年には朱印船貿易が始まり、布教に力を入れるスペインを嫌い、貿易に力を注ぐオランダや英国を厚遇し、1609年にはオランダが、1613年にはイギリスが平戸に商館を置いて平戸貿易が始まった。
3代将軍家光の時になると鎖国色が強まり、カソリック国の来航禁止となった。
イギリス人の商館は平戸にあったが、日本との貿易が儲からなくなったために日本から手を引き、イギリス商館は閉鎖となる。
このため、オランダだけが貿易取引相手として生き残ったという具合だ。
◆1641年にはポルトガル人の追放により無人となった出島にオランダ人が移り、これを機に鎖国令と禁教令が徹底され、来航するオランダ人にはカソリック国の宣教活動などの情報提供をも義務付けた。
オランダ側では情報提供が日本との貿易独占を維持する条件となっていた。
オランダ船が日本に到着するたびに、日本側はオランダ商館長を訪れ海外情報を入手した。この時作成されたのが「風説書」と言われるものだ。
19世紀中葉、国際情勢が緊迫化した時にはより詳細な内容の「別段風説書」を提出させた。
幕府はこうしたオランダを窓口とする情報入手により、対外的な事情をほぼ正確に把握しており、ペリー来航についてもかなり詳細な情報をつかんでいたというのは事実のようだ。
そうした情報を認識したうえで、落ち着いた適正な行動ができたのかというと、話は別だ。
(学23期kz)