能吏・小栗上野介忠順 ②

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年10月 トピックス】

◆一刻者

信念を曲げず、忖度もせずものを言い、気も強かったため職を辞することが多い。

しかし相当出来る人物だ。

職を辞めても幕閣からはすぐに職の要請が来る。

職をすぐ変えることから「一刻者」と評されたようだ。

行く先行く先でよい仕事をするが、何せ上司にも忖度しない。

優秀がゆえにエリート中のエリートが得る「勘定奉行」の職に4度も就いている。

◆薩長軍への徹底抗戦を主張

慶応3年の大政奉還、明けて慶応4年の鳥羽・伏見の戦いが行われ、戊辰戦争が勃発。

慶喜の江戸帰還後、江戸城で行われた大評定。

ここで小栗は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと薩長軍との主戦論(徹底抗戦)を主張。

決断を避け、場を外そうとする慶喜公の袴の裾を掴んでまで、殿・慶喜の再考を促すも、殿は小栗の手を払い奥に消えた。

この時、小栗の人生が決まった。

◆高崎で帰農

小栗はまもなくお役御免になり、領地の群馬・高崎で隠棲帰農した。

この時、慶応4年2月末に彰義隊の渋沢成一郎が小栗にアクセスしている。渋沢は小栗に彰義隊隊長(頭取)就任の話を持ってきたが、「(殿・慶喜に)薩長と戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない」と断ったという・・・

その後の小栗のあわれな顛末については、ここでは触れない。

上手く身を処せば、小栗は福沢諭吉や渋沢栄一のように1万円札の顔になったかもしれないとする識者の見立てもある。

しかし幕臣であることの矜持を持ち続けた小栗は、混じり気のない清らかな生き方をした。

「上手く身を処す」ことのできた他の幕臣とは異なり、純な能吏であった。

(学23期kz)

コメントを残す