山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年12月 トピックス】
新政府軍・大総督府の中でも彰義隊への対応を巡って対立があった。
もともと無血開城にあたり、江戸での内戦に対して英パークス公使から戦闘回避を要請された西郷、また大将の有栖川宮は穏健・交渉派。
これに対し、岩倉具視、三条実美、長州藩・大村益次郎は薩摩の独走阻止、廃仏毀釈への地ならし、奥州列藩を牽制し、東征のはずみをつける意味から交戦論を主張。
この両派の間で論戦が続いたという。
こうしたなかで、彰義隊の勢力が増長するに及んで、交戦派が力を得ていく。
この過程で、新政府軍の実質的な司令官が西郷隆盛ではなく、大村益次郎になり、西郷は一武将として正面・黒門攻撃の指揮を執ることになる。
◆時間の問題
東征軍は日を跨ぐと幕臣たちの不穏な分子が蹶起し江戸市中が火の海になることを恐れて早期決着を目指していた。
抜かりない算段が得意な大村は、開戦の午後には決着が着くような戦術を考えていた。
◆切り札の部隊という説
上野戦争当日、午前中は一進一退の戦闘を続けた両陣営。
ここに切り札となった500名の部隊が活躍したという説もある。
その部隊は、前日は千住の宿に泊まり、当日の昼頃、会津の援兵と称して会津藩の旗を掲げ、鶯谷駅のある新門(坂下門)から入った。
文化会館の北寄りのところにある摺鉢山という古墳のあるところまで来たとき、会津の旗を降ろして代わりに長州の旗「一文字三ツ星紋」を掲げて、黒門口を内側から攻撃。
これにより上野の山内は大混乱になり、彰義隊は崩壊した。
こうした戦闘模様を報じたかわら版があったが、官軍は回収にかかった。
しかし1枚だけが残っており、覆面部隊工作が知れることになったそうだ。
本当か?
中外新聞外篇の二十巻(慶応4年5月刊行)にはこうある。
「官軍東叡山屯集の彰義隊を攻むる事」
・・・「會」と相記し候旗押立候て援兵来り候様子の処、右は儀兵にて忽ち発砲・・・とある。
勝ちを時間単位で読み切っていた感のある新政府の東征軍総司令官・大村益次郎。
大村益次郎にとって、この部隊の動きが、アームストロング砲よりも確実に勝ちを引き寄せる戦略だったとは考えられないか・・・
こうしたこともあってか、黒門が突破されたとの報に、天野八郎は隊士を率いて反撃に向かおうとしたが、気が付くと従うものは若干名だったという。この時に彰義隊の隊士の戦意はすでに失せていたようだ。
◆江戸での新政府軍勝利のシンボル
もともと、新政府軍にとって彰義隊を潰すことは問題ではなかった。
ただ、扱いを間違えば江戸庶民を敵に回し、今後の新政権にとって厄介な存在になると考えられた。
江戸庶民に徳川に代わり、新政府の存在を知らしめるために、彰義隊との戦い、そして上野戦争での勝利は格好の舞台となったのではないか。
(学23期kz)